「鎌倉幕府から弾圧を受けながら、真の仏の道を求めた浄土真宗の開祖・親鸞。その教えを弟子の唯円が「正しく伝えたい」と願って書き残し、時代を超えて読み継がれたのが『歎異抄』。本書は、親鸞の生涯に作家として正面から向き合い、三部作の大長編に挑んできた著者が、自らの心で深く受け止めた『歎異抄』を、滋味あふれる平易な文体で現代語訳した名著」そのエッセンスを紹介しよう。
・阿弥陀佛の本願というのは、この世で悩み苦しみ、 そして生きるために数々の罪を犯しているわたしたちをたすけよう という、真実の願いから立てられた約束である。 その約束を信じるならが、 ほかのどんな善行とよばれるものも必要ではない。念仏、 すなわち仏の誓いを信じその願いに身を任せてナムアミダブツとと なえることこそ、究極の救いの道だからである。
・念仏がほんとうに浄土に生まれる道なのか、 それとも地獄へおちる行いなのか、わたしは知らない。 そのようなことはわたしにとってはどうでもよいのです。 たとえ法然上人にだまされて、 念仏ととなえつつ地獄におちたとしても、 わたしは断じて後悔などしません。そう思うのは、 このわたしが念仏以外のどんな修行によっても救われない自分であ ることをつね日ごろ身にしみて感じているからです。要するに、 わたしの念仏とは、 そういうひとすじの信心です。ただ念仏して浄土に行く。 それだけのことです。
・「慈悲」というものについて、わたしたち他力門と、 自力をたのむ聖道門とでは、考え方が違う。聖道門の慈悲とは、 他人やすべてのものをあわれんだり、深くいとおしんだり、 自分のちからで助けようとする気持ちとその行為のことである。 しかし、はたしていったい、 ほんとうに自分のちからで他の人々を根底から救うことなどできる ものだろうか。われわれの信じる他力の慈悲というのは、 すべての人は念仏によってまず浄土に生まれ、そこで仏となる。 その結果、 新たなちからを得て人々を救うことができるという考え方である。
阿弥陀様の、親鸞上人の念仏への熱い思いが伝わってくるなあ…。響くなあ……。繰り返し読みたいなあ。オススメです!(・∀・)