「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「私訳 歎異抄」(五木寛之)

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私訳 歎異抄(たんにしょう) (PHP文庫)

私訳 歎異抄(たんにしょう) (PHP文庫)

 
以前から興味があった歎異抄五木寛之さんの訳でようやく読むことができました。
 
鎌倉幕府から弾圧を受けながら、真の仏の道を求めた浄土真宗の開祖・親鸞。その教えを弟子の唯円が「正しく伝えたい」と願って書き残し、時代を超えて読み継がれたのが歎異抄。本書は、親鸞の生涯に作家として正面から向き合い、三部作の大長編に挑んできた著者が、自らの心で深く受け止めた歎異抄を、滋味あふれる平易な文体で現代語訳した名著」そのエッセンスを紹介しよう。
 
・他人を蹴落とし、弱者を押しのけて生き延びてきた自分。敗戦から引き上げまでの数年間を、私は人間としてでなく生きてきた。その黒い記憶の闇を照らす光として、私は歎異抄と出会ったのだ。
 
阿弥陀佛の本願というのは、この世で悩み苦しみ、そして生きるために数々の罪を犯しているわたしたちをたすけようという、真実の願いから立てられた約束である。その約束を信じるならが、ほかのどんな善行とよばれるものも必要ではない。念仏、すなわち仏の誓いを信じその願いに身を任せてナムアミダブツととなえることこそ、究極の救いの道だからである。
 
念仏がほんとうに浄土に生まれる道なのか、それとも地獄へおちる行いなのか、わたしは知らない。そのようなことはわたしにとってはどうでもよいのです。たとえ法然上人にだまされて、念仏ととなえつつ地獄におちたとしても、わたしは断じて後悔などしません。そう思うのは、このわたしが念仏以外のどんな修行によっても救われない自分であることをつね日ごろ身にしみて感じているからです。要するに、わたしの念仏とは、そういうひとすじの信心です。ただ念仏して浄土に行くそれだけのことです。
 
「慈悲」というものについて、わたしたち他力門と、自力をたのむ聖道門とでは、考え方が違う。聖道門の慈悲とは、他人やすべてのものをあわれんだり、深くいとおしんだり、自分のちからで助けようとする気持ちとその行為のことである。しかし、はたしていったい、ほんとうに自分のちからで他の人々を根底から救うことなどできるものだろうか。われわれの信じる他力の慈悲というのは、すべての人は念仏によってまず浄土に生まれ、そこで仏となる。その結果、新たなちからを得て人々を救うことができるという考え方である。

 

阿弥陀様の、親鸞上人の念仏への熱い思いが伝わってくるなあ…。響くなあ……。繰り返し読みたいなあ。オススメです!(・∀・)

 

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私訳 歎異抄(たんにしょう) (PHP文庫)

私訳 歎異抄(たんにしょう) (PHP文庫)