「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「不敗の格闘王 前田光世伝 グレイシー一族に柔術を教えた男」

スゴイ本に出会いました!こんな日本人がいたなんて!!!(・o・)!!!


「今世紀初め、世界各地を放浪しながら異種格闘技戦を繰り返し、2,000勝無敗の戦績を残した伝説の柔道家前田光世。若き頃、彼は世界中に柔道の強さを示し、普及させるため世界を転戦、巨人ばかりのボクサーやレスラーを相手に柔道衣を身につけた試合では負け知らず。彼の強さと人柄からコンデ・コマ(コマ伯爵)と敬意をもって呼ばれるようになる。彼がブラジルに伝えた柔道は、グレイシー一族に受け継がれ、50年後、グレイシー柔術として、格闘技の世界を席巻する


後半世の彼はブラジル・ベレンに腰を据え、私設領事という働きでアマゾンのジャングルの開拓に力を注ぎ、日本から夢を追い求めてブラジルに渡った移民たち を親身になってサポートした。彼は日本に戻るチャンスもあったが、世話をし続けた入植者たちを置いて帰ることを嫌い、生涯に帰国することはなかった。 彼の死は現地でも大きく報道され、葬儀には日本人のみなならず、多くのブラジル人も参列したという。2014年度、大宅壮一賞(雑誌部門賞)受賞の神山典士氏のデビュー作で、第3回小学館ノンフィクション大賞を受賞した『ライオンの夢』の文庫化である」そのエッセンスを紹介しよう。


1920年代初期、キューバに現れて400名にものぼる地元レスラーや力自慢と闘って、無敗のまま去っていった日本人柔道家がいた。日本名、前田光世、「コンデ・コマ=高麗伯爵」という名を使って戦い歩いていた。


「当時日本人がキューバに着くと、決まって地元の人から“君は日本人か、だったらコンデ・コマを知っているだろう。彼はジェントルマンだった。とても強い男だった。この島で、何回も戦った。一度も負けない柔道家だった”と聞かされたものです」


「前田がブラジルに伝えたオールド・スタイルの柔術は動きが硬かった。だから、体格に恵まれなかった父は体力のハンディを逆に武器にしながら“柔よく剛を制す”の精神でオリジナルの柔術を作っていったんだよ。それがグレイシー柔術さ」(ホリオン・グレイシー


何故前田が選んだのはアマゾンだったのか、という疑問を突き詰めていく時、「そこに日本人が誰もいなかったから」という、彼の独立独歩の開拓精神が見えてくる。また、アマゾンに到着する以前の中南米では日本人移民の開拓の苦難を目にし、アメリカでは「排日」の気運を肌で感じていたから、晩年の歴戦の旅は「日本人開拓移民の理想地探し」だったとも理解できる。


「コンデさんは普通に町を歩いていても、曲がり角に来ると必ず大回りして、視覚に誰かいないか確かめてから歩き出した。晩年になってもその癖は直らなかった。」

「勝負に際しては、二つのことを言っていた。一つは、絶対に勝つという意気込みで、相手から目を離すな。二つは、相手が息を吐いた時に飛び込め。息を吸う瞬間こそ弱い時だから」異国の地において前田の日常は、そのまま「格闘」だったことを示すエピソードだ。


柔術と柔道の一番大きな違いは、より実践的であるか否かという点だ。柔道は武道というよりもスポーツとしてのスマートさを身につけている。ごく一部を除いて相手に決定的なダメージを与える関節技は禁止され、押さえ込みや投げ技が主流になった。試合において細かく体重別にクラス分けがなされているのも、スポーツとしての西洋的な平等精神に則ったものだ。だが、柔術においては、相手の攻撃に対してどう防御するか、体格の違う相手に対してどう戦うか、異種格闘技とどう戦うか。仮に相手に組み伏せられてもそこからどう反撃するかといった、実践を想定した技術が最大の焦点だ。自らは、スポーツではなくセルフ・ディフェンス(自己防御術)と定義している。


やっぱり日本の柔術ってスゴかったんだねえ。格闘技ファン必読!超オススメです。(・∀・)