野球の醍醐味でもある終盤での代打登場!ここで一発出れば逆転という数多くの筋書きのないドラマがあるのだ!
「流れを読み、はまる。」「初球から思い切っていく。」「一撃で決める。」「挽回のチャンスは二度とない。」という四つの心構えが「陰の四番打者」 代打の鉄則である。セ・パ両リーグの各時代の「代打の神様」10人の生き様を追う傑作ノンフィクション。なかでも、水島新司のあの「あぶさん」のモデルにもなった高井保弘を紹介しよう。
1945年愛媛県生まれ。指名打者・一塁手・外野手。右投右打。173cm90kg。1964年阪急ブレーブス入団、1982年引退。実働16年、1135試合出場、665安打、130本塁打、446打点、打率.269.ベストナイン1回、オールスターゲーム出場1回(1974年第一戦MVP)パ・リーグプレーオフ首位打者賞一回、通算代打本塁打27本(世界記録)、シーズン最多代打本塁打6本(パ・リーグ記録)。引退後は野球解説者を長く務めた。
・彼が代打専門になった理由「そら守るところがなかったからですよ。プロに入ったときは外野だったんです。でも二軍で一塁手がいなくなって一塁手になった。だけど一軍にはスペンサーという選手がいたからレギュラーになれなかった。最初に試合に出たのも代打。ヒットも本塁打も打点も代打。なにするにも代打だったわけや。そういう印象が監督に沁みついてしまったんやろね。便利屋としてね」
・「それまでの努力と言うのは、バット100本振ったとか、ランニングやったとかというものでした。だけどワシはそんなしんどいことはせんで、頭のほうで。アンダーシャツの袖の部分を見ていたらよっくわかる。腕が高く上がると袖がすっと降りてくる。降りた位置によって球種が変わる」
・1974年オールスターゲーム第一戦。マウンドのヤクルトのエース松岡弘からオールスターゲーム史上初の代打逆転サヨナラツーラン!野村監督「お前を選んだ甲斐があった」と満面の笑みで言ってくれた。高井は「恩返しができてよかった」セ・リーグの川上監督は「もう勝ったと思ったのに信じられない」と呟くしかなかった。高井は、MVPが内定していた王から賞をかっさらった形になった。高級ステレオ、60万円の舶来の腕時計、それに多くのトロフィー。これらを狭い家のどこに飾るかいなと心配にもなった。後に松岡は、「なぜ、あんな低いボールを……。あのときの球が速さ、コースとも一生で最高の球だった」と語った。まさか自分の癖が見ぬかれていたとは、知るよしもなかった。
・ロッテの捕手高橋博士「あいつがベンチにおると1点や2点のリードだったらいつひっくり返されるかわからん恐怖心がある。4点以上リードせんと安心できないんじゃ」
・高井は生涯代打で120本のヒットを打った。その打点は109だ。ヒットの殆どに打点がついている計算になる。だから109打点は、レギュラー選手なら一年でも到達する数字だ。単純に比べるといかにも少ない。18年かけて積み上げた彼の打点はそのような評価であった。高井は言う。
「代打で必要なことはやっぱり自信かなあ、でないと打席には行かれへんよ。なんぼ経験積んでも足は震えるよ、最高の場面ほどよけいにそうや。だけど絶対に見逃しの三振だけはするまいと思ってた。振って帰らんことには自分も、出したほうも納得せんからね。見てる人もあいつが空振りするならしゃあない。そんだけええ投手やからと思うからね」
・彼は現役時代、少年ファンに「一つ、準備、一つ、集中力、一つ、一番になること」と必ず書いた。それはすべて彼が達成した項目だった。そんな高井のご褒美が「世界一の代打男」という称号だった。現在、野球殿堂博物館には27本目の代打本塁打を打ったバットが展示されている。
その他、「桧山進次郎ー代打の神様がバットを置くとき」「八木裕ー元祖・虎の代打の神様」「広永益隆ーメモリアル男」「平田薫ー恐怖の“左殺し”」「秦真司ーツバメの最強代打男」「町田公二郎ー最後までレギュラーを」「石井義人ー戦力外通告の果てに」「竹之内雅史ーサムライ“死球王”の代打の極意」「麻生実男ー代打一号」など。
いいなあ、こういう個性的な選手が少なくなったよね。オススメです。(・∀・)