「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「演歌」のススメ(藍川由美)

我が母校、明治大学が排出した歴史に残る3名(組)の音楽家がいる。古賀政男阿久悠、そして宇崎竜童&阿木耀子夫妻だ。(敬称略)

そして、この本はソプラノ歌手である藍川由美さんが書いた演歌の本、テーマは、ナント!古賀政男先生なのだ!

わが国には無批判に西洋クラシック音楽を崇拝し、自国の音楽を見下す風潮があるが、そろそろ日本人も、明治以来の音楽教育によって植え付けられた西洋音楽コンプレックスから脱却する必要があるのではないか。現に近代日本には、少数ながら、日本人としての美意職や音楽的伝統を基盤に、西洋音楽至上主義 と闘ってきた作曲家や詩人たちがいた。古賀政男中山晋平本居長世、野口雨情らの作品を徹底検証、日本の歌を初めて実証的に評価した衝撃作」そのエッセンスを紹介しよう。


「演歌」って、どろどろしてちょっと品がない。子どもの頃からピアノの稽古に通っていた私はそういうイメージを強く持っていた。ところが、音楽を職業とするようになって、童謡や唱歌、劇中歌、歌謡曲戦時歌謡などの楽譜にあたり、楽曲分析を行う中で、これまで当たり前のように思っていた「クラシックは高尚だが、ポピュラーは低俗」という考え方に疑問を抱き始めた。そう考えるようになった私は、とうとうあれほど毛嫌いしていた「演歌」を歌うまでになった。しかも「古賀メロディー」を、ウィーンでシュランメル・アンサンブルと録音したのである。私は、日本の歌の歴史に大きな足跡を残しながら、不当な評価を受けていると思われる古賀政男中山晋平本居長世らの作品を見直してみることにした。


・実際に古賀メロディーには、マンドリンやギターの教則本から習得した器楽的手法、ジプシー音階、ハバネラのリズム、ジャズの諸要素など、多種多彩な音楽のエッセンスが織り込まれていた。


・数年前、私は書店で偶然古賀メロディーの楽譜を見つけた。手にとってパラパラとめくると私が耳にしたこともないような装飾音や五連符などが書き込まれていた。それからというものテレビやCDや古賀メロディーを聴き漁ったのだが、どの演奏も楽譜と異なっていて、同じメロディーが同じ節回しで歌われる例を見つけることはできなかった。たしかに流行歌においては、一般的に歌手が「コブシ」を自由に歌ってよいとの慣習があるし、実際にそう考えている作曲家も居るのではないかと思う。ただ、古賀メロディーの楽譜に書き込まれた「コブシ」は、その指示の細かさからみて、とても重要な意味を持っているように思えた。しかし、古賀が楽譜に書いた「コブシ」を忠実に再現した演奏がない以上、これは私の思い込みでしかない。


・そんな考えを反芻する中、私はふらっと立ち寄ったレコード店古賀政男が歌っている古賀メロディーのCDを見つけた。さほど期待をせずにCDを聴き始めた私は仰天してしまった古賀の節回しが、楽譜に書き込まれた「コブシ」と完全と一致していたからである。しかも古賀は日本の伝統的な歌唱法を踏まえて歌っていた


歴史的にみて、主に声を伴う音楽が発達してきた我が国において、古賀のように、ギターやマンドリンの演奏に秀で、器楽的発想を持つ作曲家が出現したことはきわめて稀なことと言わねばならない。


・私は当初、古賀メロディーに綿密に書き込まれた「コブシ」は、日本人に本来的に備わっている美意識の所産であると考えていたが、作品を分析するうちに、古賀の作風が最初から日本的だったわけではなく、次第に日本的な色合いを強めていったことに気付いた。それは歴史的必然ともいえるものだった。そして、子ガメを一括りに「演歌」として論じているうちは、真の姿が見えてこないのではないかと感じ始めたのである。


西洋音楽の実態する知らないままクラシック音楽を崇拝し、自国の音楽を卑下しているわれわれの姿勢はどう考えてもおかしい。本来、ヨーロッパ諸国の民族音楽たるクラシック音楽と、わが国の民族音楽は、同等に扱われるべきである。


はあ…そうだったのかあ…古賀政男先生の歌が聴きたくなったあー!オススメです。(・∀・)