「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「創られた「日本の心」神話「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史」(輪島裕介)

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創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史 (光文社新書)

創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史 (光文社新書)

 

 この本はある意味衝撃的だっ!!!「演歌は日本の心」って何の根拠もなかったなんて!?(・へ・)!

 

美空ひばりは、「演歌」歌手だったのか?気鋭の音楽学者が、膨大な資料と具体例をもとに「演歌」=「日本の心」神話成立の謎を解き明かす。"伝統"はいかに創られるのか?いったい誰が、どういう目的で、「演歌」を創ったのか? 」そのエッセンスを紹介しよう。


そもそも、ある一定の曲調や歌手を指して「演歌」や「演歌歌手」と呼ぶことはいつから始まったのか?昭和30年前後に登場した三橋美智也は民謡調歌謡曲三波春夫浪曲調歌謡曲であり、その時点では誰も演歌とは呼ばない。こう見てくると「演歌」そのものが見当たらない1960年代のどこかで発生したとしか、言いようがない。いつの間にか「演歌」が独自のジャンルとして認識されるようになり、「日本の心」といった物言いと結び付けられるようになり、このこの言葉が存在していなかった過去の流行歌に対しても当てはめられるようになってゆくのです。その過程で「演歌」誕生以前から活動してきた美空ひばり春日八郎などは、新たに誕生した「演歌」イメージに添うような形で自らの活動を「演歌歌手」として鋳直していきます。


・日本のレコード歌謡は、資本・録音技術・レパートリーのいずれにおいても「舶来」
のイメージを強く持ったモダン文化として誕生しました。現在「演歌」の典型にして精髄とみなされる古賀政男の一連の楽曲も「ラテン風」「南欧風」と見られていました。「影を慕いて」などに特徴的なギター演奏も、開放弦を活用しながベース音と和音と旋律を同時に演奏するクラシックギターお技術に基づくもので、当時はギターやマンドリンの響き自体がモダンなものでした。初期の「古賀メロディー」を歌った藤山一郎の歌唱は完全に西洋芸術音楽の声楽技術に基づいています


「演歌」の語源は明治の自由民権運動の流れを汲む「演説の歌」。公開演説会が政府の取締りの対象となったために、それをカムフラージュするために「歌」の形を取った「演説の歌」である。最初の演歌というべき「ダイナマイト節」川上音二郎の「オッペケペー節」などは鋭い政府批判と社会風刺を含んでいた。やがて自由民権運動が一段落すると、演歌は直接的な政治批判から滑稽を含んだ社会風刺に変化する。明治末年にそれまで無伴奏で行われていた演歌の実演に、ヴァイオリンが導入され、芸人に近づいていく


・さらに同時期に、日露戦後の東京遊学の流行を背景に、壮士ではなく書生(苦学生)が演歌の担い手になっていゆき、歌本の販売が学資稼ぎと称したアルバイトのなったため商業性と娯楽性がさらに増してゆく。「演歌師」という呼称が現れるのもこの頃である。かくして、新しい歌(文句)を作って広める、という演歌師とその生業としての機能は衰退し、演歌師は遊里や盛り場で客の求めに応じて演奏する「流し」の芸人として細々と生き残ってゆく。その過程で「演歌(師)」「艶歌(師)」とも当て字されるようになり「演説」という起源は忘れ去られてゆく。

 


「演歌」は「日本の心」か?この問いに単純な肯定・否定で答えることはできませんが、それが簡単に答えられるようなものではない、ということがご理解いただければ、本書の目論見はある程度成功したといえます。


「明治・大正期の演歌師・添田唖蝉坊添田知道」「演歌イコール「日本調」ではない」「「浪曲子守唄」と「苦節」の様式化」「誰が「演歌」と名づけたのか?」「昭和30年代の「流し」と「艶歌」」「ご当地ソング、盛り場歌謡、ナツメロ」「青江三奈と森進一、そして川内康範」「五木寛之による「艶歌」の観念化」「「エンカ」という新語」「1970年代以降の「演歌」」など。

 

なーるほど!φ(..)メモメモ これはスゴイ発見だー!オススメです。♪

 

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創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史 (光文社新書)

創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史 (光文社新書)