「ギター弾き」のワタシは、この本のタイトルを見たら読まずにいられない!♪ワタシにとっては「ギターは小野塚テルの人生をどう変えたか」なのだ!ギターのない人生なんて考えられないっ!
「今や最も身近で愛されている楽器ギターは、いつ、どこで生まれ、どんなふうに世界に広がったのか。そして二十世紀の日本ではどのように普及し、日本の歌をどう変えたか。戦前のハワイアン、古賀政男、あきれたぼういず、戦後の田端義夫、ウエスタン/ロカビリー、エレキ・ブームまで。ギターをフォーカスにすると、ポピュラー音楽のユニークな歴史が見えてくる!J‐POPのルーツへの楽しい探索の旅」そのエッセンスを紹介しよう。
・全国楽器製造協会の調査によれば、2000年の日本では、 アコースティック、 エレクトリック合わせて70万6757本のギターが作られた。 これは電子キーボード類の合計80万台弱には及ばないが、 他の楽器、 ヴァイオリン以外の弦楽器の合計の約6万5000本やピアノの1 4万台強と比べてみれば、突出した数字だ。 その約4割が国内で販売されている。 一年間に何十万本ものギターが国内に出回り、 新しい持ち主の手に渡って奏でられたり、飾られたり、 ほこりをかぶったりしているわけだ。この本では、 そのギターがいったい日本でどんなふうに紹介されて定着し、 ポピュラー音楽を変えていったのかを探ってみようと思う。
・日本で最初にギターを弾いた人は残念ながらはっきりしない。 ヨーロッパの楽器が日本で演奏されたのは、 記録に残っている範囲では、1551年にフランシスコ・ ザビエルが山口の武将大内義隆にクラヴォ(クラヴィコード) をプレゼントしたときが最初だ。 ザビエル本人が弾いたのかどうかわからないが、当然、 誰かが大内義隆に弾いて聞かせただろう。 宣教師は賛美歌を教える必要上、最低限、 楽器が弾けたにちがいないからだ。
・江戸末期に開国して以降の記録では、 比留間賢八が1901年にイタリア留学からマンドリンとギターを 持ち帰ったのが、日本にギターが入ってきた最初とされている。 しかしもの好きな人が多い日本に、 開国から50年近くもギターが持ち込まれなかったとはとても思え ない。
・1911年は、 詩人の萩原朔太郎が慶応大学の予科に入学した年でもあった。 彼は比留間賢八や田中常彦にマンドリンを習い、 ギターを練習した。一時期は東京音楽学校をめざしたら、 技術的に及ばないからと断念している。
・国産のギターを最初に作ったのは、 名古屋の鈴木政吉と言われている。 和楽器の工場で働いていた彼は、 1889年にまずヴァイオリンの国産化に成功した。 第一次世界大戦の間はヨーロッパの楽器生産が途絶えたため、 鈴木に世界各地から注文が殺到し、 1916年にはヴァイオリン4万本近くを輸出したというから、 たいへんな急成長ぶりだ。 1907年に鈴木で作られたギターが500本、 26年が4320本とある。以後、国産ギターの生産数は、 太平洋戦争がはじまるまでおおむね増加し続けたと思われる。
・古賀政男が次兄からマンドリンを贈られ、 音楽をめざしたのは1919年、15歳のときだった。 マンドリンは「その頃のわが国で、最もモダンな楽器」 だったという。明治大学の予科に入学した23年、 彼は明治大学マンドリン倶楽部の創設に参加し、 卒業するころには倶楽部の中心人物になっていた。
「ギターの歴史」「日本のポピュラー音楽とギター1945年まで、戦後から現代へ」いままでのギターに対する、見方、考え方が変わるよね。オススメです。(・∀・)♪