「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「市助落し」(ニッポン博物誌 PART2・矢口高雄)


ずーっと、忘れられないマンガがある。それは今から30年以上前に読んだが、未だに私の心をつかんで離さない。釣りキチ三平で有名な矢口高雄氏の短編、「市助落し」だ。

品川図書館のHPを検索していたらナント!それを収録した単行本があるではないか!さっそく取り寄せて30年ぶりに読み返して、あの感動が蘇ってきた。そのエッセンスを紹介しよう。


増田町秋田県平鹿郡)より東方へ半里(約2キロメートル)のところに真人山という険阻な山がある。全山ことごとく緑濃き老松をもっておおわれ、その南側面は断崖絶壁激流岩をかむ成瀬川にさしせまっている。その昔、この断崖絶壁は「真人(まとう)ヘグリ」とよばれ交通の一大難所であった。なにしろ当時は岩角にやっと足をささえ、つる草を手にして通るくらいであったから…あやまって川へ転落し生命を失ったものが何人いたかしれない。今日でも「市助落し」などとよばれる恐ろしい名のところがある。


そこに、明和8年(1771年)に着工されて以来、たった一人で、久蔵という青年が、なんと六年間もの歳月を費やして、この断崖絶壁に道を作った。。それは、想像を絶する難工事で、いかにこの計画が不可能に近いものであったか。そしてあまりに無謀すぎた。



・亀田村の久蔵と亀田小町といううわさの高い静子という娘であり、二人はすでに親も認めた許嫁(いいなずけ)であった。


「また市助落しに人が落ちたそうね…せめて人一人が通れるくらいの道があったらこんなことにはならないでしょうに…」


「何だとォ!ヘグリに道を通すだとォ!!考えてもみろよ…あの切り立った崖にどうやって道を通すというんだ!?死にたくなかったらヘグリんあか通らなきゃよかんべ…。上流の村さいくにゃあちょいと遠回りだが、真人山の裏側さ迂回道があるんだから。昔から急がばまわれってことわざがあるぜ!!」


しかし、いかんせんこの山道は急勾配の峠道であり、おまけにヘグリを通るよりも五倍もの遠回りになることから、往来する人々の中には、危険を承知の上でヘグリ渡りをしたことが、多くの事故を招くことになったものにちがいない。


それからまもなく二人は晴れて夫婦になり、珠のような朱美が生まれ、親子三人の暮らしはただ幸福にすぎていった…。しかし、ある日、朱美が原因不明の熱に冒され三日三晩生死の間をさまよった。久蔵は20キロ離れた川上の医者に行きクスリをもらい、行きには迂回道を通った久蔵も、帰りには我が子の病を一刻も早くなおしてやりたい一心で近道の真人ヘグリへと踏み込み、「市助落し」に落ちる。幸いにも久蔵は助かったが、いとしい娘はもやはこの世の人ではなかった…


「クッソウ!真人ヘグリめっ!にっくき市助落しめっ!!あのヘグリさ、道さえあったら朱美は死なずにすんだかもしれねえ!!」


亀田村の久蔵が単身で真人ヘグリの開削をはじめたのが明和8年(1771)愛娘の百か日法要をおえた翌日のことであった…。工事完成までは家に帰らないことを家につげての出発であったため、ヘグリの入口に建てられたそまつな小屋がきょうからの久蔵の家であった。しかし、たった一人の仕事である。ましてや当時はブルドーザーなどの便利な機械があるはずもなく…クワなどの農具のほかは…ツチ一丁タガネ一丁のいでたちであった。終日タガネをふるって岩肌をけずり疲れた体をひきずるように小屋へ帰る久蔵であったが、夜は夜で遅くまでワラジ作りに精を出す久蔵でもあった。このワラジは小屋の入口において往来する人々に自由にはいてもらおうというもので…そのおりに投げいれられるいくばくかの金子(きんす)が生活費にあてられた。


そんな久蔵に対する村人の目は冷たかった。子供からも「バカ久」と呼ばれていたが、夫の辛苦をみるにみかねた愛妻の静子が大願成就を祈願して市助落しに身を投じた…。

ところが、ある日、想像を絶する巨大な岩盤、打てども叩けどもかけらひとつ打ちかくことのできない硬い岩にぶつかったのである。そして久蔵はある誓いを立てるのだが…。


その他、「鷹の翁」「ピヨちゃん」「サルカ三十もん」「ホタルこい!」「おやじ騒動記」「納豆ロード」「白髮太郎」「イワナの恩返し」「底無し沼の極小トンボ」など。

いや〜うまく伝えられない…。コツコツとひとつの道を突き詰めるということ、困難に立ち向かい、乗り越えるということ、志とは何か、を学べる作品だ。読むことができたらぜひ読んで欲しい。オススメです。(・∀・)