「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「田中角栄 戦後日本の悲しき自画像」(早野透)

  

我が故郷、新潟県が生んだ、100年に一人の政治家、田中角栄

「コンピュータ付きブルドーザー」と呼ばれ、五四歳で首相の座に就いた田中角栄角栄を最期まで追い続けた番記者が語る真実。そのエッセンスを紹介しよう。


田中角栄に対する最も鋭い批判者となる立花隆は、「抽象思考ゼロの経験主義者」と断じた。実感的、経験的、そして人生訓的であることは角栄の生涯の思考形式である。だが、それもやむをえない。角栄は中曽根とは違って、大学の教壇から抽象的想像力、体系的思考を学ぶ機会はなかった。角栄にとって人生は、ひたすら「具体」の積み重ねであって「抽象」ではなかった。それを角栄の「非」とするのも酷である。


・若き田中角栄の長岡の街角での演説。「越後の人間はこれまで西の海にすとんと落ちる夕陽しか見てこなかった。いいですか、みなさん、私がかならず皆さんに、東の海からゆらゆらゆったり昇る朝日を見せてあげる。約束しますぞ。越後山脈のどてっ腹に穴を開け、拘束の鉄道を建設し、道路を通し、二時間か三時間で東京に着くようにしてみせる。そうすれば朝日が確実に見られる。そうでしょう、皆さん」


・1962年(昭和37年)池田内閣で蔵相を務めた。初登庁で職員を集めて訓示した。

「私は小学校高等科卒業である。諸君は日本中の秀才代表であり、財政金融の専門家だ。私は素人だが、トゲの多い門松をたくさんくぐってきて、いささか仕事のコツを知っている。われと思わん者は誰でも大臣室へ来てほしい。上司の許可を得る必要はない。できることはやる。できないことはやらない。すべての責任はこの田中角栄が背負う」
角栄の官僚操縦は、いつも同じといえば同じである。私は素人である、思う存分やれ、責任は俺が取るという手法である。


角栄の長男の田中京。「ウィスキーを浴びるようにして飲んだかか思うと、地響きのようないびきをかいて寝ている。10分か15分も経つと、すぐに起き上がって、「水!」と怒鳴る。冷たいお絞りで顔を拭い、テレビのニュースをかぶりつくように見ながら、お新香と味噌汁で飯を掻き込み、『出かけてくる』と言い残して車に乗り込んでいく」


・1993年(平成5年)12月16日、体を弱らせて慶応大学病院に入院していた角栄は「眠い」とつぶやき、それが最後の言葉だった。身内の葬儀での眞紀子の挨拶。「父は生前、こう申しておりました。天に召されるときは、眞紀子よさらば、という。その時は動じることなく毅然としていてほしい、と。その約束も果たさず、天にかけのぼってしまった」


・西山町長は、「裏日本の暗く貧しい豪雪の住民に、希望の光と豊な生活を与えてくれた」と述べた。社葬では、越後交通社長が表日本との生活格差是正に努力された」と弔辞を読んだ。その日、雪おこしの雷が鳴り、稲妻が走った。葬儀が終える頃、氷雨があがって灰色の空から斜陽がもれた。


角栄本を何冊も読んでいるが、角栄は一言ではいい尽くせない。偉大な政治家だったということは否定できないだろう。オススメです。(・∀・)