「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「松田聖子と中森明菜」(中川右介)

松田聖子と中森明菜 (幻冬舎新書)

松田聖子と中森明菜 (幻冬舎新書)

1980年代のトップアイドルといえば、松田聖子中森明菜だ。(^^♪ 歌謡界が激変したといわれる80年代。どんなドラマがあったのだろうか?


アイドルを自覚して演じ、虚構の世界を謳歌する松田聖子。生身の人間として、唯一無二のアーティストとしてすべてをさらす中森明菜。相反する思想と戦略をもった二人の歌姫は、八〇年代消費社会で圧倒的な支持を得た。商業主義をシビアに貫くレコード会社や芸能プロ、辛気臭い日本歌謡界の転覆を謀る作詞家や作 曲家…背後で蠢く野望と欲望をかいくぐり、二人はいかに生き延びたのか?歌番組の全盛時代を駆け抜けたアイドル歌手の、闘争と革命のドラマ」そのエッセンスを紹介しよう。


・2007年で松田聖子は45歳。「まだまだこれからです」ということを番組で言っていた。中森明菜「こんなに長く歌っているなんて、思いもしなかった」と述懐した。これにはふたつの意味がある。ひとつは「こんなに長く歌手として人気を保てるとは思わなかった」との思いであり、もうひとつは「誰かのお嫁さんになるはずだったのになあ」まりとっくの昔に「結婚=引退」しているはずだったのに、という思いである。デビュー25年を迎え、松田聖子はあくまで未来を志向し、中森明菜は過去を振り返る。


・1980年代の前半においては、日本人が最も多く「聴いた声」と「認識した日本語」は、ときの総理大臣の声でもなければ、人気作家のベストセラー小説でもなく、二人の歌だった。その歌を忘れてはならない。


現実世界の松田聖子は「欲しいものは何でも手に入れた」と評される。たしかに彼女は、仕事も、恋も、家庭も、名声も、財産も手に入れた。だが、彼女は−「孤独」かどうか分からないが−その歌の主人公同様に「独り」なのではないだろうか。


・1978年、CBSソニー集英社によるミス・セブンティーン九州大会に蒲池法子は挑んだ。若松宗雄ディレクターは、声に強く惹かれた。彼女はデビュー前もデビュー時も、そして最大のヒット曲を送り出す時も、常に声だけで勝負した。その顔や姿よりも、まず先に声がある。それが、歌手・松田聖子の本質だった。当時の他の実力のある女性歌手たちに比較したら格段に「うまい」わけではなかったが、とにかく声量があり、異常に声が出ていたのだ。アイドルといえば声量がないという常識を逸脱していた。なにしろ、史上初めて、顔ではなく声が先に認識されたアイドル歌手だった。そして三年後、SWEET MEMORIESによって、人々は松田聖子の歌のうまさを改めて認識する。


松田聖子は、いまとなっては他の名前が考えられないほど、彼女にぴったりな芸名である。当初予定されていた芸名「新田明子」ではあれだけの大きな存在になれただろうか。蒲池法子が新田明子としてデビューしていたら、いまごろはひっそりと暮らしていたかもしれない。


・テレビのコマーシャルで裸足の季節を聴いたある人物は、「この人の詞は、ぼくが書くべきだ」と直感した。「彼女の声の質感と自分の言葉がすごく合うような気がして」と後に語っている。その直感はあまりにも正しかった。この人物こそが松本隆である。


松本隆松田聖子作品は、その思わせぶりな記号のちりばめ方において、村上春樹の小説世界とよく似ている。「ピンクのスイートピーはあっても、赤いスイートピーはない」「マーメイドは人魚なのに、どうして裸足になれるのか」「すみれ・ひまわり、と春と夏を代表する花の次が、どうしてフリージアなのか」「渚にバルコニーなどあるのだろうか」「映画色の街とはどんな色だ」など、ごく一部のマニアのあいだでは、さまざまな論争が展開された。


中森明菜は、デビュー後も、衣装や髪型について、すべて自分で決めていった。プロデュース能力に長けていた。歌の才能も含めて、中森明菜は天才だった。そして天才が周囲と軋轢を起こすのは避けられなかった。アルバムのための十曲ができたとき、そのひとつについて「この曲、私に合わないみたいです」とディレクターに言い、「そんなこと言うのは十年早い」と叱られた。結果としては、話し合って納得できたのでその曲も歌ったが、ひとつの事件として業界に伝えられるようになった。


中森明菜は最初期の来生えつこ来生たかお売野雅勇を除けば、特定の作詞作曲家と密接な関係を持とうとはしなかった。この点が、松田聖子が一貫して、松本隆を、山口百恵がシングルの大半を阿木燿子・宇崎竜童に託したのとは根本的に違っていた。それぞれのミュージシャンは、彼女のために一曲書くだけで燃え尽きてしまうのかもしれない。

・1980年のデビューから85年までの松田聖子のレコード総売上は320億円、この6年間でトップだった。対する中森明菜は活動期間が2年少ないが、205億円で二位。この期間に限れば、松任谷由実中島みゆきサザンオールスターズオフコースなどよりも、そしてもちろん演歌勢などよりも圧倒的にこの二人のレコードが売れたのだ。


松田聖子は「子どもを持ちながら働く女性」の代表としての地位を得る。松田聖子的生き方」を支持するかしないかが、女性誌の重要テーマとなり、「聖子さんのように生きたい」「聖子さんが、がんばっているから、私もがんばれる」と思う女性たちが、新しいファンになっていった。中森明菜は虚構と実人生のバランスがとれなくなった。不幸や孤独はあくまで歌の中での話のはずだったのに、繰り返しているうちに、実人生にもそれが侵入し、彼女は混乱した。そんなはずではなかったからだ。中森明菜は二つの人格に引き裂かれようとしていた。


瞳はダイアモンドの最後の一行は「涙はダイアモンド」だった。井上陽水「飾りじゃないのよ涙は」で、中森明菜「ダイヤと違うの涙は」と歌わせた。一年の時間差があるので、気づいた人は少なかったかもしれないが、松田聖子のファンは、「あ、やったな」と思った。


その他「スター誕生!のはじまり 1972年」「ザ・ベストテンによる変革 1978年」「遅れてきたアイドル 1980年」など。秘められたアイドル史でもある。超おススメです。(^^♪