「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

BOOK〜『お江戸の名所の意外なウラ事情』(江戸歴史散歩愛好会)

お江戸の名所の意外なウラ事情 (PHP文庫 え 17-1)

お江戸の名所の意外なウラ事情 (PHP文庫 え 17-1)

街歩きが大好き。(^O^) いつも出張先では街をぶらり。はじめていくところでも街をぶらり。テレビの街歩きリポーターやりたいなあ!(^O^)

さて、この本は、いまも江戸の名残を止める「名所」を取り上げ、そこに隠された歴史の意外なウラ話を紹介した江戸ガイドだ。そのエッセンスを紹介しよう。


三軒茶屋がなぜこの地名で呼ばれるようになったのか?旅人が往来するこの三叉路に信楽(しがらき)」「角屋(かどや)」「田中屋」という三軒の茶屋があり、参詣客が、この三軒の茶屋のいずれかでよく休憩したことに由来する。


広尾は江戸初期、「広尾原(ひろおのはら)」あるいは「土筆原(つくしのはら)」と呼ばれる広大なすすき野だったという。麻布はかつて麻が生い茂る大地で、この地名は、採れた麻で布を織っていたことに由来するという。また「荒れ野原」を意味する浅茅生(あさじう)から付いたという説もあるが、いずれにしても、麻が生い茂る荒れ野原だったことがわかる。台東区千束の「吉原」は、もともと葭(よし)が繁る湿地帯だったことから「葭原」と呼ばれていたが、これをおめでたい字に変えて「吉原」と改称した。これが、遊郭「吉原」誕生の経緯である。


渋谷は、このあたりは昔、江戸湾の入り江で「塩谷の里」と呼ばれていたが、その「塩谷」が「渋谷」になったという説。この地を流れる川が鉄分を多く含んで赤い「シブ色」だったために「シブヤ川」と呼ばれたことによるというものだ。


日暮里は、江戸時代以前は「新堀」と呼ばれていたという。やがてなまって「にっぽり」となっていった。そしてにっぽりは江戸ご府内の人々が行楽をする際の近くて便利な場所となっていった。花だけでなく、夏の蛍、秋の虫の声、冬の雪景色なども名物だったという。そして、行楽に行けば思わず景色に見とれてしまい、知らないうちに「日が暮れてしまう里」ということで「日暮里」の文字があてられるようになった。


・当時の日比谷は「比々谷」と記されていた。「ヒビ」とは、海苔やカキなどを採るために、干潟や浅瀬に枝付きの竹や木の枝を差したもので、これが入り江いっぱいにあったという。日比谷の地名はそれに由来しているが、比々谷では、盛んにヒビの仕掛け漁がおこなわれていたのである。


千代田区紀尾井町は、たくさんのオフィスビルが建ち並び、ホテルニューオータニ上智大学などがある街だ。「紀尾井町」とは、紀伊徳川家、尾張徳川家、井伊家の頭文字「紀」「尾」「井」を取り、格式順につなげて「紀尾井」と名付けられた


地名の由来ってオモシロイよね。(^J^)