「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

BOOK〜参勤交代の経済効果とは!?…『大名行列の秘密』(安藤優一郎

大名行列の秘密 (生活人新書)

大名行列の秘密 (生活人新書)

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さて、今日のこの本、タイトルに惹かれて読みました。(^^♪ 時代劇や映画でみる大名行列。いままでのイメージとガラリと違った。実は、江戸御府内の場合、徳川姓の大名は別として、一般庶民が大名行列に出会ったとしても、土下座する必要はなかったんだって。へえ〜!( ..)φメモメモ

なぜなら、江戸は全国の大名が集まってくる都市。行列が通るたびにいちいち土下座させていては、交通が渋滞するのは必至という事情もあったに違いない。

結論からいうと、大名行列の政治的な役割とは、将軍をトップとして、その下に諸大名が重層的に連なる武家社会の序列を視覚化することにあった。徳川姓の大名の行列に土下座させたことにも、徳川家と他大名との格差を認識させようという狙いがあった。経済的には、江戸や街街道の消費経済を活性化させる役割を担っていた。江戸の経済は内需に依存する構造になっていたが、そこで大名行列が果たした役割は大きかった。だが、同時に、宿場を中心として、地域社会にさまざまな波紋を引き起こすことにもなったのだ。その知られざる大名行列のヒミツとは!?そのエッセンスを紹介しよう。


大名行列というと、とにかく長いというイメージが強いだろう。加賀百万石の前田家などは、行列の人数がなんと4000人にも及んだ。なぜ、そんな長い行列を仕立てて国元と江戸の間を往復したのか。幕府から課された義務だったからだ。将軍に忠誠を誓う参勤交代の制度により、原則として江戸で一年間生活するため、国元と江戸の間を一年おきに行ったり来たりしていたのである。


大名行列とは、一朝事あらば、すぐさま戦闘状態に入れるよう隊列を組んだ行列である。常在戦場というわけである。そのため、枕元にも武器が置かれたが、殿様の警備役である小姓も、不審番として二人座っていた。実際には、寝ている殿様との間に屏風が立てられ、屏風越しに座る形だろう。従って夜もずっと起きている様子を周りに見せる必要があった。いうまでもなく、寝込んでしまうと夜襲を受けても殿様を守れないからだ。よって、殿様の寝所は一晩中、明かりが点いている状態だった。殿様の枕元近くにいる小姓は、源平盛衰記太平記を朗読していた。寝ている殿様としては、明るい上に傍で本を読まれては気になって眠りたくとも眠れない。当然、参勤交代の駕籠の中で寝ることとなる。

しかし、籠の乗り心地は薄い布団しか敷かれていなかったから、腰だけでもなく足も痛い。だから、朝から夕方まで駕籠に乗り通しの日が数日以上続く参勤交代となれば、殿様の苦痛も並大抵ではなかった


大名行列には、警護のだけではなく、殿様選任の料理人もメンバーに加わっていた。宿泊所や休憩所である宿場の本陣に行列が到着すると、料理番が台所に入って調理する。殿様の毒殺を防ぐためだ。調理が終わると、料理の責任者である「台所奉行」がまず毒見する。殿様の食事は必ずしも豪華なものではなく、むしろ質素なものだった。さらに出された食事は規定どおりの量を残さず食べなければならない。残してしまうと、同じく料理人の責任問題になるからだ。駕籠の中に長時間閉じ込められ、食事も好き嫌いもいえず、夜も安眠できないで盛大な大名行列の裏では、殿様たちの難行苦行が繰り広げられていたのである。


・数千の人数が歩くとなると、先頭から末尾までの距離は数キロにもわたるだろう。それも間隔を空けながら行進しているため、実際はもっと長くなる。享保の頃の数字では、十万石程度の大名の場合、その人数は280人くらい。一万石クラスの大名などは37人という極端な事例さえある。大名行列の大半は、150人から300人ぐらいの人数だったようだ。


・国元の城下町や江戸に入るときは威儀をただした礼装だった。ところが、道中の間は、旅姿の略装だったらしい。つまりは、参勤交代中はほとんど旅姿だったことになる。歴史教科書などにも掲載されることの多い錦絵で描かれている大名行列とは、限定された場所でしかみられなかったものなのである。


大名行列は、一日平均32〜36キロぐらい歩いたらしい。しかし、一日歩き詰めの日などは、錦絵に描かれているように、隊列を組んで整然と行進するというのはとても無理。大体、平坦な道ばかりではない。峠道もあるだろう。大井川に象徴されるように、川を渡るとき、や風雨に巻き込まれれば、行列は乱れる。


殿様の食事を作るための料理道具、米、水、塩、醤油、漬物、漬物石、殿様専用の風呂、風呂に入るための腰かけ、手桶、携帯用トイレ、囲碁将棋の道具、紀州徳川家では、鉄の述べ板を持ちこんでいた。殿様の寝床の下に敷くためのものだったという。床下に刺客が忍び込んでも、殿様に危害が加わらないようにするというわけだ。この鉄の述べ板の存在は、ごく一部の者しか知らない極秘事項だったらしい。結果、大名行列は、城そのものが動くような形にならざると得なかった。大名行列をみていくことで、謎のベールに包まれている殿様の生活が浮かび上がってくる。


・加賀前田家の場合、国元出立の40〜50日前から準備をはじめたという。殿様を守って行列を差配する家老の選任。行列に加わる藩士たちと行列での役割の決定。道中での宿割り。十二泊十三日分の旅費などの支払計算とその支給…。

その他、「道中の泣き笑い」、「川越の三つのオプション」、「お気楽な家臣たち」、「茶壺に追われてトッピンシャン」、「江戸城前は大騒ぎ〜朝の通勤ラッシュ」、「下馬先は商売繁盛」、「巨額の旅費」、「涙ぐましい経費節減策」、「参勤交代の形骸化」…、とても興味深く読みました。