「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「獅子たちの曳光 西鉄ライオンズ銘々伝」(赤瀬川隼)

 

ワタシの物心がついたときには、すでに西鉄ライオンズは消滅していて太平洋クラブライオンズだった。当時のエースは東尾修。野球が好きになるに連れて、西鉄ライオンズのことが知りたくなり、いろいろと書籍で追い求めている。もう10冊以上は読んでるかな。あのパ・リーグの低迷時代、好きだったなあ!♪
 
さて、この本もいいよお。特に近鉄バファローズの名監督だった仰木彬さんの章が特に、印象的だった。そのエッセンスを紹介しよう。
 
 
仰木彬 谷落としされた仔獅子】
 
 

 
 
・上位三チームがそれぞれ一、ニゲームを残すのみとなってなお、一ゲーム差内でペナントを争 うという、プロ野球史上かつてない激しい三つ巴に、一九八九(平成元)年十月十四日午後八時五十九分、終止符が打たれた。その直後、胴上げで宙に舞った男、近鉄バファローズ監督仰木彬は、ただちにフィールドでテレビ・インタビューのマイクの前に立たされた。そのときの、興奮 と平静さがバランスを保った語り口の、何とよどみなかったことか。僕は、優勝直後の監督の弁で、これほどことばになっていたことばを聞いたことがないしかも余裕綽々の優勝ではなく、 見ているファンも息の詰まりそうな厘差のつば迫り合いに勝った直後のことである。前年の十月十九日、最終ゲームに勝てば優勝というときに、負けもしないのに他にペナントが渡ってしまったという不条理を味わった男が、一年後のこの夜、「ね、これが本当の野球なんですよ」と、静 かに訴えているようにすら僕には思えたのだった。
 
 
近鉄優勝の数日前、僕の友人が言った。パシフィックの優勝争いは面白いけど、ゲームその ものは概して大味だね。たとえば巨人対広島のゲームのような緻密さに欠ける」僕は反論した。ベンチの 細かい作戦がありありと表われるゲームよりも、選手個々の思い切っ たプレーの末の成功や失敗の目立つゲームのほうが、僕にははるかに面白い。ときに大差の圧勝だ。それを大味と言わば言え。
 
三原脩は、では当時の二十歳前後の「サムライたち」にどう映じたのか。話のわか
る優しい監督だったのか。何人かのサムライたちが三原について異口同音に言うことは、「こわい人だった」フィールドの内でも外でも、細かいことまで拘束し管理してぎゅうぎゅう絞り上げるこわさではない。自主性と言うのはやさしいが、自分たちの野球を自分たちでつくり上げる様子を黙って眺めていて、ときどき寸鉄人を刺すことばを発する人は、こわい存在だったに違いない。
 
なぜ仰木が叱られ役になったのか僕は、三原が大勢の若者の中で特に仰木に、プレーヤーとしての素質とともに、将来の指導者の資質をも見抜いていたからではないかと思う。いわば仰木は三原から、獅子の子落しの仔としての器量を買われたのだと思う。
 
 
・そう思うと僕は、今度の近鉄バファローズの優勝を、三原が草葉の蔭からどう眺めていたかに思いが行く。監督やコーチは、選手の特長に合わせ、力が出やすいように意欲を引き出す役であ る――これが「選手は惑星である」という詩的な名言の中身だろう。三原はそうし、仰木もそうした。加えて僕は数年前、近鉄のコーチになったばかりの中西太からもまったく同じ信念を聞い たことがある。そして僕の脳裡では、三十数年前の南海ホークスに現在の西武ライオンズが、三十数年前の西鉄ライオンズに現在の近鉄バファローが、それぞれ多少の色合いを変えながらも 重なってしまうのである。三原の遺した獅子の仔たちの現在を考えるとき、西鉄ライオンズは消滅していない。
 
・三原のチームづくりのイメージとターゲットは明確だった。関東の巨人、関西の南海の洗練さ れた求心力野球に対して、日本列島西南部の若く素朴な活力を、宝石にたとえれば原石のまま 光らせて遠心力でぶつける。表現の達人三原自身のことばを引けば、「強く黒光りするような個性の宝庫を発散させよう。グラウンドにまき散らされたひとすじひとすじの強烈な光線は、きっと活躍するだろう。
 
 
西鉄ライオンズに入って三原さんと出会ったことが、今日まで何とか野球人としてやれてきた元です。本当に人生の節目節目で、あの方の存在は大きいものでした」
 
仰木の話は、どうも自分の話にならない。僕の質問の仕方もまずいのだが、流れに任せているといつの間にか三原脩の話題になってしまうのである。僕は何とかして、仰木の会心のゲーム、 会心のプレーを聞き出そうとする。彼に限らず今後も僕は、かつてのサムライたちに、球場外での武勇伝よりはゲームそのものの、フィールドでの快い思い出を聞き出したいのである。しかし、「いやもう、入ったときから他の人との実力差にたじたじでしたね。三原さんからほめてもらったのは、入団した二十九年の中日との日本シリーズでの働きぐらいのものです」といったぐあいである。
 
・そのとき最初に三原さんから言われたことは人脈だけでは駄目だぞ』ということでした。指導者としての資質を見込んだことはもちろんだが、明らかに人脈によって仰木を呼んだ三原 は、そう釘を刺しておいて、その年限りで近鉄を去りヤクルト・アトムズの監督を引き受ける。 普通の師弟関係なら、当然、三原は仰木を右腕として連れて行っただろう。そうならなかったの が二人の偉さである。「連れて行くのは簡単だけど、きみはもっと多くの人からいろんなものを吸収しなさい」と言わました。以来、仰木は、岩本、西本、関口、岡本と四人の監督の下で近鉄一筋を貫き、コーチに専念す
 
 
・「三原さんは厳しい人でした。自分に対してもね。晩年は、老醜をさらしたくないと言って、め ったに人前には出ず、家にも人を入れなかった。著述の仕事があったのでその編集者は別でしたけどね。そうなってからも出入り自由だったのは、中西さんと私ぐらいでしたね」 仰木が訪ねると、三原は野球の話がしたくてむずむずしていたらしく少し不自由になったろれつで口から唾を飛ばしながら語ったという。 僕はやっと仰木から自慢話らしいものを聞けたと思った。しかしこの唯一の自慢は野球人として何とすばらしいものであることか。
 
・親獅子から谷に落とされた仔は、今、親獅子となり、新しい時代の「遠心力野球」で惑星たち のエネルギーを発散させ始めている。
 
・「僕をはじめ、こどもたちに『こうしろ』とは命令しないんですよ。『どうするんだ』と聞く。 そして自分の考えと同じなら何も言わない。違うと、自分の考えに持って いかせようとするんですが、それも直接には言わない」
 
・「命令ではなく、自分が決めてやったことは、自分や相手を裏切らないわけですよね。西鉄の監督の ときのおやじも、『おまえに任せる』というのは、選手を信頼したというより切られないようにとの考えによるものだったんじゃないかとも思う」
 
・学校をはじめ今の教育はどうか。教師は多言を費して説明に説明を重ね、教師と学生の間は、言ったことしか伝わらない関係にあるというのは言い過ぎだろうか気付かせる、自分で自分を知らしめる、これは根気の要ることだが、プロ野球界で三原のやったことは、西鉄ライオンズという田舎チームに日本一の黄金時代を到来させただけでなく、そのときの数多くのプレーヤーを、 今日、プロ野球の一流の監督やコーチとして活躍させているのである。
 
・「そうすると、博さんが後楽園などでゲームを見て、夜、家でお父さんと一緒になると、野球の話になったわけですか「いや、おやじも僕も、野球の話は一切なしでした」
 
・ゲームを終えたあと、西鉄のナインは監督の三原の家によく集まっていたという。「決まって裏の庭でジンギスカン鍋です。いやもう食欲旺盛で賑やかなこと。ええ、たいてい僕も一緒でした」
 
「選手たちとなると、鍋をつつきながら当然、その日のゲームの話でしょうね」
 
「いや、勝とうが負けようが、野球の話は一切なし。流行歌手とか三面記事の、たわいない話ばかりでしたよ」「三原監督は?」「にこにこ見てるだけです」
 
それを聞いて僕は、西鉄ライオンズの強さが改めてわかったような気がした。同時に、今まで に会ったオールド・ボーイたちが口ぐちに言っていたユニフォームを着た三原さんは、こわかった」ということばがわかるような気がした。
 
 その他、「プロローグ 西鉄ライオンズと私の前史」「豊田泰光 疾走する暴れん坊」和田博実 強気の韋駄天キャッチャー」滝内弥瑞生 いぶし銀のユーティリティー・プレーヤー」「稲尾和 ダイヤモンドの守護神」「関口清治 磊落な兄獅子、不動の五番」「藤本哲男 オールラウンドの野球人」「河野昭修 不屈の万能内野手」「三原脩 自発性を引き出した教育者」「大下弘「超凡人になるべく努力せん」中西太 花は咲きどき咲かせどき」「対談 獅子たちを語る 長島茂雄」「対談 ライオンズは生きている」「エピローグ 西鉄ライオンズの黄金時代以後」など。

 

いいなあ。ナマで観かったなあ。西鉄ライオンズの恋慕の想いはつのる。野球ファン必読っ。超オススメです。(^^)