さて先日校友会で、名誉教授の吉田悦志先生の「阿久悠の詞と人生」に感動してご著書を読みました。そのエッセンスを紹介しよう。
・「おまえの歌は品がいいね」という父・深田友義の言葉。
「君の文章は横光利一を思わせる」という小学校の伊藤昌隆先生の 言葉
「あなたは大丈夫よ」という妻の言葉
この三つの言葉はきわめて大きな意味を持つ。作詞家・ 阿久悠における「作品と文学」「作品と女性」「父の存在」 といった阿久悠論の中心となる柱を結構することができる。 つまり阿久悠の詞と人生を考える際に極めて大切な言葉なのである 。
・もしかすると、阿久悠の作詞作品に登場した女性たちが、 1970年代から80年だぢ初めにかけて生きた現実の女性たちの 与えた勇気や開放感は、その仕事がポピュラリティー、 つまり大衆性を持つが故に、 樋口一葉や与謝野晶子や平塚らいてうたちの営みや活動よりも、 大きな広がりと衝撃力を持っていたのではないかと考える」
・1972年頃、熱海で開かれた高校の同窓会の席上で「 みんな昔話ばかりしているけど、 過去を振り返るだけの会ならもう出ない」と言い放ったという。 生きっぱなしに生きた阿久悠は、 やはり過去の事象や人間へのこだわりではなく、 今存在しているものやこれから先に存在するものに関心を集中させ たのである。そのような阿久悠にとって、 父は別格の存在であった。父・ 深田友義は国家権力の側にいた巡査として、 法と秩序がすべての無骨で頑固で融通のきかない正義派であり、 単純明快に保守派であった。
・創作で一番大事なのは工夫。
・阿久悠という人は、詞を国民の真ん中に投じて、 熱狂を作り出した天才である。熱狂を作り出して「妙な快感」 を味わいたいために存在していたのだ。熱狂を作り出す快感が、 阿久悠を突き動かしていたのである。 これこそ阿久悠の三つ子の魂なのだ。 ダンディズムはそのために存在した。
・詞は文学ではない。歌は、 レコードという音を通して相手に伝えるものだということを忘れて いる人が多いのではないか。詞は、 文字で伝える詩とは決定的に違うのである。これを忘れるから“ あおい”というときに“青”を使おうか“蒼”にしようか“碧” にしようかと、つまらないところで苦労するのである。 レコードを聞く人にとって、そんなことは関係ない。
いいなあ。将来、「小野塚テル記念館」が生田校舎にできればいいなあ。(笑)オススメです。(^^)