昨年から、明治大学の大先輩、阿久悠先生に関わる本を読んでいる。この本もそう。ちょうどワタシの親の同世代ということで、あの時代から学ぶものがあると思うのだ。
「伝説的アイドル、ピンク・レディーを手掛け、『津軽海峡・冬景色』をはじめ、生涯に五千作におよぶ歌をのこした作詞家阿久悠。敗戦で価値観の大転換を経験した少年が、時代を食らい、歌謡界の巨人へと駆け上がった軌跡、最期までこだわり続けた「言葉」への執念――。丹念な取材を元に綴られた傑作ノンフィクション」そのエッセンスを紹介しよう。
・生涯に五千作におよぶ歌詞を書いたひとだった。一曲を三分半と見積もったとして、17,500分ー約292時間、休まず聴いて12日以上かかる計算である。これに小説やエッセイが加わる。作詞家デビュー以前に書いたテレビ番組の構成原稿や企画書まで考えると気が遠くなってしまうような仕事量である。しかも私生活でも毎日欠かさず日記をつけていた。時事エッセイの素描のような、世相に密着したレポートを、自分自身のために書きつづけたのである。それが阿久悠だった。ひたすら言葉を紡いできた生涯だった。「量産」や「多作」という単語でまとめてしまうには、あまりにも熱い。だが、その熱さは時代の寵児のはしゃいだまばゆさと違う。執念にも似た……いや、むしろ、ある種の哀しみにも近いものが、阿久悠ののこした膨大な言葉の裏にひそんでいるような気がしてならなかった。
・なぜ深田公之は「阿久悠」だったのか。最後の最後まで「阿久悠」であり続けようとしたのか。「阿久悠」であり続けなければならなかったのか。僕の取材の旅は、その問いの答えを探す旅だった。そしてそれは、阿久悠より三歳上の父を持つ僕にとっては、「親父の生きてきた時代」をたどる旅でもあったのだ。
・活字の世界で生きる者の端くれが仰ぎ見るには「阿久悠」はあまりにもーそして、いまもなお、遠くまばゆい存在である。それでいて、1963(昭和38)年に生まれた僕にとって「阿久悠」の名は忘れがたい数々のヒット曲とともに、ごく身近なものとして記憶に刻まれているのだ。
・遠くて近い「阿久悠」。それが矛盾にならないところに、歌の持つ力はある。マスメディアのかけた魔法がある。阿久悠のいた時代、阿久悠のつくった歌が街に流れていた時代、阿久悠の手がけたスターがメディアを席巻していた時代……いわば「時代名詞」としての阿久悠をたどる旅である。
・歌謡曲は「時代を腹に入れて巨大化し、妖怪化する」と阿久悠は言った。だが、その「歌謡曲」を「阿久悠」と置き換えてもいいのではないか。歌謡界の巨人・阿久悠は、時代がどんなふうに食べて、どんなふうに言葉の血肉としてきたのか。それを探ることは、阿久悠は数々の歌で映したものをーすなわち、歌詞カードの余白は行間にひそむ「こごえそうな鷗」を見つけだすことである。
・(都倉俊一)「僕は、ある意味では阿久さんは静かな社会学者だったんではないかな、と思うんです。数限りないアンテナを張りながら時代のにおいとか、移りゆく時代の息吹とかを、自分の美学と合わせて、作品にした。社会や大衆がどういうものを要求しているかということを、ほんとうにつぶさに分析して作品にあらわした。それを『時代の飢餓を満たす』と呼んでいました。『時代はいつも飢えているんだ、その飢えている時代に対して僕は言葉を投げかけて、その飢えを満たすんだ』と。
・(海老名俊則)阿久さんは事務所から持ち込まれた仕事は決して断りませんでした。こっちであらかじめスケジュールや内容を検討して仕事を選ばないとぜんぶ引き受けてしまうんです。趣味らしい趣味もなかったし、銀座で豪遊するわけでもない。私生活でモノにこだわっているのを見たことがないんです。事務所に顔を出したときの食事も、コンビニのサンドイッチやおにぎりでね。もっと美味しいお店があるわけだから、若いスタッフに買いに行かせようとしても「いや、これ、けっこう美味しいよ」って笑っているんです。
阿久さんの作品には、望郷の歌はほとんどないんです。どこかに帰りたい、という想いは阿久さん自身のなかったんじゃないかな。その代わり、旅立つ歌が多いでしょう。それが阿久さん自身の気持ちだったと思いますよ。
・阿久悠の作詞の出発点は、まず歌手ありきではない。聴き手である大衆を、そしてその大衆が生きている「いま」という時代をどうとらえるか。マーケティングの手法である。
大晦日の紅白歌合戦を観ても、流行歌や歌謡曲という言葉が消えて久しい。阿久悠先生のような巨匠はもう出ないのかもしれない。オススメです。(・∀・)