「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「不機嫌な作詞家 阿久悠日記を読む」(三田完)

 


不機嫌な作詞家 阿久悠日記を読む


我が母校・明治大学が産んだ音楽業界の天才といえば、古賀政男、宇崎竜童&阿木耀子、そして阿久悠」大先生。(・∀・)


作詞家として、また逢う日まで」「北の宿から」「勝手にしやがれ」「UFO」など5度の日本レコード大賞に輝き、生涯で売り上げたシングル盤の枚数は約7000万枚という歌謡界のモンスター。その阿久さんが生前、26年7カ月間にわたり毎日つけた日記が明治大学駿河台キャンパスにある阿久悠記念館にひっそりと収められている。


「2014年秋、阿久さんの身近で長年にわたり仕事をした三田完さん、阿久さんのひとり息子の深田太郎さん、明治大学の吉田悦志(国際日本学部)、富澤成實(政治経済学部)両教授、岩波書店OBの井上一夫さんの5人が、この膨大な日記の解読を始めました。その研究の成果をもとにした書き下ろしが、本作品です。1日も休むことのなかった日記には、身辺雑記から仕事のメモ、その日のニュース、本や新聞の情報、ひらめいたアイデアなどが、愛用のペンテルのサインペンでぎっしり書きつらねてあります。戦前、淡路島でうまれた少年はいかにして「阿久悠」になったか。時代をリードし続けた創作の秘密はどこにあったのか。作詩から小説へと軸足を移した『瀬戸内少年野球団』の映画の成功、しかし直木賞をとれない苦悩、晩年に苦しんだがんとの闘病など、これまではうかがいしれなかった、芸能界の巨人の苦悩も初めて明らかになります。NHKディレクターを辞して以降15年、阿久さんとともに過ごした著者だけが知る「歌謡界の巨人」の真実」そのエッセンスを紹介しよう。



なぜ『スター誕生!』の審査関で阿久さんはあんなに険しい顔をしていたのか。後年、尋ねてみたことがある。
「番組をはじめるとき、決意したんだよ。出場者の前で笑顔を見せるのはやめようと。これからプロをめざすひとたちなんだから、子供扱いしちゃいけない。大人に対するのと同じような感想をいわないと失礼だと」つまり、阿久さん自身が『スター誕生!』という番組のなかでは恐い先生に変装していたのである。


阿久さんにとって、知る人ぞ知る重要なアイテムが日記である。昭和56(1981)年から亡くなる半月前の26年7ヶ月、毎日欠かさず書き続けたものだ。一日一ページ、身辺雑記や仕事のメモだけでなく、その日のニュース、本や新聞から得た情報、ひらめいたアイデア、あるいは箴言(しんげん)のたぐいまで多様な記述が横書きで整然とレイアウトされている。ところどころ強調したい文言や重要なメモが赤い文字になっている。


日記を一瞥しただけでも、阿久悠という巨人の日常が描かれた興味深い読み物である。と同時に、昭和の終わりから平成にいたる世相を阿久さんの筆で活写した第一級の史料として後世に伝えるべきものと確信する。日記のどこかに、累計7000万枚ものシングルレコードを売った作詞家の創造の秘密がひそんでいるかもしれない。ふるえるような気持ちで、私は阿久悠日記のページを繰り始めた。阿久さんはどのように変装した時代を見つめていたのか。そして阿久さん自身はどのように変装して人生を送っていたのか…。


「昭和が終わって一区切、全てを水に流せると思うのは日本人の考えで、外国人にとっては一区切も水に流すもないのである。心して」


・「今日は何も話したくない。「逆境を好機に変える天才」と云う言葉を信じるのみ」


その他、美空ひばりと同い年の少年」「青春はシネマの闇に」「月光仮面制作中」「深田公之、阿久悠となる」「『スター誕生!』と山口百恵」「直木賞の憂鬱」「無冠の父」「生きっぱなし」「阿久悠と色魔」など。


「歌謡曲」という言葉も死語になったよね。こんな作詞家はもう出ないだろうね。阿久悠記念館」にまた行きたくなりました。オススメです。(・∀・)


 


不機嫌な作詞家 阿久悠日記を読む