「いい加減」が好きだ。「いい加減」=「良い加減」だよね。私の故郷の新潟の松之山では、「いやんべだ」=「いい塩梅だ」のことだ。この日本語の曖昧さが、いい加減さが、いいよね。(^^)
「ことばのおもしろさを伝える一冊。本書ではフィラー、 指示詞を主なテーマとする。あってもなくてもよさそうな「えーっと」「あのー」などのフ ィラーにきっちりとした役割があることや、指示詞(こそあ)は案外「いい加減」なもので あることを見る。 きっちりとしていると思えばいい加減、いい加減と思えばきっちり。ルールで自分たちをが んじがらめにしたがり、一方でラクにしたい。そんな人間の複雑さをことばが見事に反映し ている」そのエッセンスを紹介しよう。
・ことばというのは、正しい、 正しくないをいちいち特定できるほど厳格にはつくられてない。 その意味でいい加減なのである。ことばは刻々と変化する。 発せられたことばの意味と現実の世界がぴったりと一致するとは限 らない。「私ら」と言えば「私」のことだったりもするし、「 ビール3本ほど持ってきて」と言われ「4本」、 持ってきた店員に対して訴えられることもない。 我々は常にお互いのコミュニーケーションに誤解を生じる危険と隣 り合わせで生きている。
・「水」に例えると、 温度の違いをいちいち正確に伝えようとするあまり、 温度に対して「水」 という単語を単語をいちいち変えていかなければならないとしたら 、準備する単語は無限になる。いい加減に「水」 と表現しておくことによって、 我々は単語を覚えるという作業を省エネ化しているのである。
・ことばがいい加減にできていることを、 我々は直感的には知っている。だから、誤解をなくすために、 ありとあらゆる努力をする。1つの方法は、 とにかくたくさん話すということだ。「水」と言わずに「 冷たい水」「ぬるい水」「お湯と水との間くらいの水」…… などのように、ある1つのことに対して、 情報量を増やせば増やすほど、その物事に対する確実性は上がる。 話しすぎることでまた新たなずれが生じることを我々はよく知って いるのであるが。
・「マー」の出現率はフィラー全体のおよそ7%であるのに対し、 サッカー選手の「マー」の場合はフィラー全体の実に47% にも及ぶ。ではなぜスポーツ選手は「マー」 を多用するのであろうか。つまり「 話すべきことはたくさんあるけれど、 それをかいつまんで話している」というような、 心的操作の反映である。
・サッカー選手のインタビューでは敗戦時に「マー」 が多くなることがわかっている。
「この本、いつ出る感じ?」「こういう言い方するくない?」「そうだ、京都、行こう」「〜のほう」「的」「みたいな」「そんな感じで」は、気になるなー。
コトバは生きてるよね。変化するよね。まー、オモシロイわー!(笑)オススメです。(^^)