「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「動物と人間の世界認識 イリュージョンなしに世界は見えない」(日高敏隆)

いや〜〜!!!この本は、すごいっ!!!今年のベスト10入りだね。今までワタシのさまざまなな疑問と仮説が解けるような気がする!!!人間と他の動物が見ている世界は同じなのか!?違うのか!?(・∀・)
 
「ある日、大きな画用紙に簡単な猫の絵を描いて飼い猫に見せた。するとすぐに絵に寄ってクンクンと匂いを嗅ぎだした。二次元の絵に本物と同じ反応を示す猫の不思議な認識。しかしそれは決して不思議なことではなく、動物が知覚している世界がその動物にとっての現実である。本書では、それら生物の世界観を紹介しつつ人間の認識論にも踏み込む。「全生物の上に君臨する客観的環境など存在しない。我々は認識できたものを積み上げて、それぞれに世界を構築しているだけだ」。著者はその認識を「イリュージョン」と名づけた。動物行動学の権威が著した、目からウロコが落ちる一冊」そのエッセンスを紹介しよう。


・動物行動学の先駆的研究家、ドイツのユクスキュルが唱えた環世界」は、1930年代という古い時代のものであるが、動物たちを観ていると、非常に重要なことを言っていたのだということがわかってくる。動物たちはそれぞれがそれぞれの環世界をもっているそれはわれわれが見ている客観的な世界とは違って、そのごく一部を切り取って見ているといえるかもしれない。
 
その環世界はけっして「客観的」に存在する現実のものではなく、あくまでその動物主体によって「客観的」な全体から抽出された、主観的なものである。その「絵幻想」をぼくは「イリュージョン」と呼ぶことにした。
 

 

▲ 人間にとっての部屋

 

 

▲イヌにとっての部屋 ハエにとっての部屋

 

・人間は死というものを知ってしまった。他の動物はたぶんそれを知らない。人間かは死というものがあるということは理論的に知っているが、自分がそれを感じて、どんなものであるかを感覚的に認識することはできない。体験することはできない。頭の中でそれを取り込んだ形で世界を構築せざるをえないすると死というものはどういうものか、死んだ後の世界はどうなっているのか、それをまったくわからないままに世界を構築しているので、そこにできあがってっくる世界は、イリュージョンとしかいいようがない。そして人間はこのイリュージョンの上に立って、いろいろなことをやってきた
 
ネコはまったく平面的な絵のネコや、机や椅子、窓に、まったくほんもののネコや机や椅子や窓と同じように反応した。そのように認識しているのだろしか言いようがない。じつに不思議な世界観だ。
 
ダニには目がないので、全身の皮膚にそなわった光感覚に頼っている哺乳類かの皮膚から流れている酪酸に匂いをキャッチすると、とたんにダニは下に落ちる。酪酸の匂いが獲物の信号となるのである。ダニを取り囲んでいる巨大な環境の中で、の乳類の体から発する匂いとその体温と皮膚の接触刺激という3つだけが、ダニにとって意味を持つ。いうなれば、ダニにとっての世界はこの3つのものだけで構成されている。ダニの世界のこのみすぼらしさこそ、ダニの行動の確実さを約束するものである。ダニが生きていくためには、豊かさより確実さのほうが大切なのだとユクスキュルは考えた。
 
イモムシは、今、自分が乗っている葉は、自分が食べるべき植物であるので、重要な意味を持つ。それ以外の空気や美しい花などは、彼らにとっては意味がない食物としても敵としても意味のないそのようなものは、彼らの世界の中に存在しないのである。
 
トリは生きた虫を食べる。そのため、動いているものにのみ意味がある。それは生きているからである。動かないものは意味がない。小さな虫は、動いているときにだけ、このトリの目に見える、存在するものとして認識される。周りに動かないものはいっぱいあるけれど、そのトリにとっては意味がない。
 
ネコの見ている世界、つまりネコの環世界はどんなものかを知ったときに、はじめて、われわれはネコはなぜそんなことをするのかということがわかる。イヌはそういうことはしない。ネコはする。なぜか?それがわかったとき、われわれはネコというものがわかり、ネコにとっての必然というものがわかり、ネコの世界というものがわかってくるのであろう。
 
・われわれが「良い環境」と言うとき、それは清潔で安全で静かで、適当に木の緑があり、しかし「雑草」は生い茂ってないところを指すことが多い。しかも教育的にも買い物の点でも、また交通の上でも適度に便利な必要がある。そうなると人間にとっての良い環境は、チョウとかトンボとかテントウムシ、小鳥などにとっては、けっして良い環境ではないわれわれが何気なく「環境」ということばを口にするとき、そこにはつねにこのような環世界の問題が関わっているのである。
 
・古典に登場する「架空の」動物は、その時代の人びとがどのような世界をもっていたかをしめすものであり、荒唐無稽なものではない。それはひとつのイリュージョンであって、それぞれちゃんとした理屈づけを持っている。
 
「色眼鏡でものを見てはいけない」とよく言われるが、実際には色眼鏡なしにものを見ることはできないのである。われわれは「動物」と違って色眼鏡なしに、客観的にものを見ることができると思っている。そしてできる限り、そのようにせねばならないと思っている。しかしこれは大きな過ちである。
 
・モンシロチョウは何十万年も昔から今のような知覚の枠をもち、それに従って世界を認知していた。モンシロチョウがモンシロチョウでいる限り、そのイリュージョンのパターンが変わることはなく、したがって彼らが認知し意味あるものとして構築する世界も同じものであった。しかし、人間においては異なっている。地球は平らなものから球体に変わり、動くのは太陽ではなく地球だということになった。地球自体が変化したのではない。人間の認識が変化したのである今から思えば事実でなかったことを、あたかも事実だと思っていたのである。それらの認識はイリュージョンの基づくものだったとしかいいようがない。
 
「『万葉集』にも聖書にもチョウはいない」「昆虫の性フェロモン研究」は、特にオモシロイっ!!!まさにイリュージョンだね。何回も読み返して腑に落としたい!超オススメです。(・∀・)