「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

ESSAY〜「雪原」(岸本佐知子)(「ベスト・エッセイ2022」より)

岸本佐知子さんが好き。この文章が好き。翻訳作品以外の著作を全部、読んでしまったので、ガサゴソとまだ未読のエッセイを探していたら『ベスト・エッセイ』シリーズにあるではないか!!
 
コロナ禍の中、表現者たちは、いったい何を見つめ、何を考えていたのだろうか。
この本を読むと2021年の空気が伝わってくる。苦しいことだけではない。喜びやユーモアが、洗練された文章で綴られている。日本語の美しさも感じとってほしい。――本書編纂委員 林 真理子
 
ということでそのエッセンスを紹介しよう。
 
【雪原】
 
小学校では、日々が苦手なこととの戦いだった。
 
たとえば給食何でも口の中で形がなくなるまで噛まないと飲みこめなかったので、 食べるのが人一倍おそく、なのに食パン二枚はどう考えても自分には多すぎ、かといって履すことも許されず、給食は苦痛以外のなにものでもなかった。
 
それからドッジボール。運動が嫌いという以前に、ボールという本来蹴ったり投げた りするものを凶器として使うことに納得がいかなかった。ドッジボールが大好きな強豪の何人かが(全員とても気が強い) 最前線に立って、あっち側とこっち側でドカドカ球の応酬をするのが、蛮族の戦いをまぢかに見ているようで恐ろしかった。
 
休み時間に女子どうしで腕を組んでトイレに行くのも無理だったみんなみたいに自然な感じにやろうと思えば思うほど全身が硬直し笑顔がひきつった。たぶん傍からは、 進行されていくあの宇宙人みたいに見えていたことだろう。
 
そして作文だ。とにかく作文がいやでいやでたまらなかった。たとえば本を読んで感想文を書きなさいと言われても、書きたいことなど一かけらも浮かんでこない。
 
目の前の、配られた原稿用紙を見る。白い四角がたくさん並んでいる。その数四百。これから自分は四百個も字を書かなければならないのだ。でも考えたら四百ってすごい数字じゃないか。巨大な数として有名な百の、なんと四倍もあるのだ。
 
具体的にイメージするために、ためしに頭の中で石を四百個、校庭に並べてみる。まず石を四百個用意するところからして大変だ。校庭の地面は舗装してあるから石なんかない。近所のヤマシタ公園から砂利を拾って運んでくるしかあるまい。砂利が四百個入る袋ってあっただろうか。すごく重いんじゃなかろうか。
 
私は頭をぶんぶん振る。そうじゃないんだ。石はやめて、そうだ豆にしよう。節分の豆まきの豆、あれ一袋できっと四百ぐらいありそうだ。あの豆を四百個も食べると言わ れたら食べられるだろうか。お腹がはち切れないだろうか。
 
わたしは、そうやって四百に思いをめぐらせるうちに目の前の原稿用紙は真っ白な雪原に変わり、 その白が視界の届くかぎりどこまでも広がっている。その中をのしのし歩きだす。この 真っ白な脳内世界のどこかに、自分が本を読んで感じたこと考えたことが埋もれているはずなのだ
 
しばらく行くとキツネが一匹倒れていた。周りに魚やクリが散らばっている。農夫に撃たれて死んだのだ。かわいそう。
 
〈ごんが、とてもかわいそうだなあと思いました。〉だめだ、一行で終わってしまった。「ごんが、とてもかわいそうだなあ。」と、思いました。〉がんばって三行。
 
他の子たちが迷いなく鉛筆を走らせるサラサラ、カツカツという音がやけに大きく響く。私はあせってさらに雪原を進む。遠くのほうに点のように、何か黒いものが見えてくる。膝まで雪に埋もれながら、そっちのほうに急いで近づいていく。
 
人だ。こちらに背を向けて机に向かい、何かしている。手元をのぞき込む。何も書いていない真っ白な原稿用紙だ。顔を近づけると、その中をのしのしと歩いていく小さな 人影がある。
 
そこでチャイムが鳴り、「はい、原稿出して!」と声がする。
 
それから数十年が経って、その苦手な作文をまだ書いている何百回と繰り返してき たのだから、いい加減慣れてもいいはずだ。でも慣れない。いつも真っ白な雪原を前にして、まず豆を数えるところから始めるのだ。
 
 
きしもと・さちこ(翻訳家) 「ちくま」5月号
 

いいなあ。この感性と発想。言葉遣い、ハマるなあ……、最高だなあ!はやくキシモトさんの次の文章、読みたいわー。超オススメです。(=^・^=)