酒場のギター弾き 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「目の見えない人は世界をどう見ているのか」(伊藤亜紗)

いや〜この本は、スゴいわー!♪ 興奮したわー!!!今年読んだ本のベスト10入りは間違いないね〜!ワタシもこれと同じ疑問を持っていたわー!♪(・∀・)

<見えない>ことは欠落ではなく、脳の内部に新しい扉が開かれること。視覚障害者との対話を通して、「見る」ことそのものを問い直す、新しい身体論。そのエッセンスを紹介しよう。


障害者とは、健常者が使っているものを使わず、健常者が使っていないものを使っている人です。障害者の体を知ることで、これまでの身体論よりもむしろ広い、体の潜在的な可能性までとらえることができるのではないかと考えています。
 
・誤解を恐れずにいえば、私にとっては一つの生物学なのです。障害者は身近にいる「自分とは異なる体を持った存在」です数字ではなく言葉によって、想像力を働かせ、想像の中だけでかもしれないけれど、視覚を使わない体に変身して生きてみることこれが本書の目的です。
 
見えないことと目をつぶることは全く違うのです。見える人が目をつぶるのは、単なる視覚情報の遮断です。つまり引き算。そこで感じられるのは欠如です。いわば、四本脚の椅子と三本足の椅子の違いのようなものです。脚の配置を変えれば、三本でも立てるのです。見えない人は、耳の働かせ方、足腰の能力、はたまた言葉の定義などが、見える人とはちょっとずつ違います。ちょっとずつ使い方を変えることで、視覚なしでも立てるバランスを見つけているのです。
 
「大岡山は、やっぱり『山』なんですね」
 
・人は自分の行動を100%自発的に、自分の意志で行っているわけではありません。知らず知らずのうちにまわりの環境に影響されながら行動していることが案外多いものです。「寄りかかって休む」という行為ひとつとっても、そこに壁があるから4日糧しまう。ボタンがあるまら押したくなるし、台があるからよじ登ってしまう。いわば、人は多かれ少なかれ環境に振り付けられながら行動していると言えるのではないでしょうか。
 
・「見えない世界というのは情報量がすごく少ないんですコンビニに入っても、見えたころはいろいろな美味しそうなものが目に止まったり、キャンペーン情報が入ってきた。でも見えないと、欲しいものを最初に決めてそれが欲しいと店員さんに言って、買って帰るというふうになるわけですね」つまり、見えなくなったことで、そうした目に飛び込んでくるものに惑わされなくなった。コンビニに踊らされなくなったわけです。
 
・「そういった情報がなくてもいいいやと思えるようになるには、ニ、三年かかりました。これくらいの情報量でも何とか過ごせるな、と。自分がたどり着ける世界の先にあるもの、意識の地平線より向こう側にあるものにはこだわる必要がないと考えるようになりました。情報が途絶えたとき、飢餓感もあったけど、落ち着いていました」
 
見えない人は、見える人よりも、物が実際にそうであるように理解しているということになります。模型を使って理解していることも大きいでしょう。その理解は概念的、と言ってもいいかもしれません。接触ることのできないものについては、辞書に描いてある記述を覚えるように、対象を理解している。
 
・見えている人にとって、空間や面には価値のヒエラルキーがあります。まさに「正面」という言い方に価値の序列がダイレクトにあらわれています。その反対は機会的に「裏面」とされます。正当ではない、ときには反社会的ですらあるいかがわしさを醸し出す面です。裏の顔」「裏口入学」「裏社会」などニュアンスもそうです。先天的に見えない人の場合、こうした表/裏にヒエラルキーをつける感覚がありません。すべての目を対等に「見て」いるので、表は裏だし裏は表なのです。決定的なのは「視点がないこと」です。視点に縛られないからこそ自分の立っている位置を離れて土地を俯瞰することができます。
 
・見えない人の足は「歩く」と同時に「さぐる」仕事も行っている。
 
・障害と無関係な人はいません。誰しも必ず年をとります。年をとれば。視力が落ちる、耳が遠くなる、膝が痛む……等々、多かれ少なかれ障害を抱えた身体になるからです。高齢化社会は、障害者が増えるということさまざまな障害を持った人が、さまざまな体を駆使してひとつの社会をつくりあげていく時代。つまり高齢化社会になるとは、身体多様化の時代を迎えるということでもあります。
 
・見える人同士だったら、「この青、なんかグッとくるよね」で許されたとしても、それでは見えない人には通じません。多少がんばって、自分なりの解釈を、言語化してみる。なんとなく分かった気になる」ことが許されないのです。黙って見る美術館」を言葉にしてみると自分の見方を明確にできますし、他人の見方で見る面白さも開けてくる。無言の鑑賞とは異なる、より創造的な鑑賞体験の可能性があらわれます。
 
「ぼくたちにとって表現のツールは限られている。だから言葉で相手の心をつかめるように努力している」
 
その他、「見える人が見えない人に対してとる態度」「中途失明の木下さんが語った「ある経験」」「メモが取れないということ」「空間とはなにか」「三次元を二次元化」「声によって女友達がお化粧をしているかどうかが分かる」「ベン・アンダーウッドの舌打ち反響音による空間把握能力」「点字識字率はわずか1割」「点字=触覚という誤解」「見えなくなってからかえって転ばなくなった」「見えない人のシュートを止めるのは難しい」「ぼくたち盲人もロダンをみる権利がある」「ソーシャル・ビューという新しい絵画鑑賞」「私たちは「推理」しながら見る」ことに慣れていない」「見えない人の頭の中のイメージは「やわらかい?」」「パスタソースで運試し」「回転寿司はロシアンルーレット」「「障がい者」よりも「障害者」」『最後に見たもの』
 
いや〜!まさに目からウロコっ!ボロボロと何枚も落ちたよー!(笑)Eテレで、こんな番組をやっているのも知らなかったわー。いい時代に突入したね。超オススメです。(・∀・)♪