「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「メロンと寸劇」(向田邦子)

 
没40年以上経つのに、いまだに新刊書が出版されるって、向田邦子ってスゴいよね〜!
(・∀・)
 
「誰もが懐かしくもホロリとする、向田邦子の食エッセイ。食べものと、それにまつわる人間を見事に描いた珠玉作品を厳選収録。寺内貫太郎一家 2」から単行本未収録脚本も一本併録」そのエッセンスを紹介しよう。
 
 
・「リッペンドロップというのは、当時のドイツの外相の名前であろう。いずれにしても天皇ライスカレー・リッペンドロップ」ーこの三題噺は私以外には分からいだろう」
 
・「井戸端会議とは何といういい草だ。いかに世の中が変わったからといって、いっていい冗談と悪い冗談がある。そんな料簡だから幾つになっても嫁の貰い手がないんだ。メシなんか食うな!」まあ、そんなところであろう。子供の頃は憎んだ父の気短かも、死なれてみると懐かしい。そのせいかライスカレーには必ず怒った父の姿が、薬味の福神漬のようにくっついている。
 
・単語の綴りを書くとき、Iという字にぶつかると、なんだか損をしたような気がするし、HやKやMJTだと得をしたようで、書く手も弾むような気がするのは、どう考えても英字ビスケットからの連想であろう。
 
卵のカラには、どうして縫い目がないのか子供の頃から不思議で仕方がなかった。鶏のおなかのなかで、どうやって大きくなるのだろう。紙風船や、お饅頭を作ってみると判るが、丸いものの、綴じ終りというか、まとめにはひどく苦労をする。随分丁寧にしたつもりでも、ここで袋の口を閉じました、といった不細工な証拠が残ってしまうものなのである。しかし、卵は、どれをみても、どこが先やら終りやら、キズもほころびもないのである。形も神秘的である。
 
・卵の形で思い出すのは、マチスのエピソードである。この人は大変な努力家で、毎日卵のデッサンをして死ぬ日までつづけたというのである。
 
戦前の夜は静かだった闇が濃いと匂いと音には敏感になるというから、そのせいもあるだろうが、さまざまな音が聞こえたような気がする。その中で忘れられないのは、鉛筆をけずる音である。夜更けにご不浄に起きて廊下に出ると耳慣れた音がする。茶の間をのぞくと、母が食卓の上に私と弟の筆箱をならべて、鉛筆をけずっているのである。
 
・見るだけでため息の出るものに人文字である。あの沢山の人の、お弁当とご不浄はどうなっているのだろう。時分どきになったら、どんなお弁当がくばられるのだろう。そのカラはどこにどうして捨てるのだろう。お茶やお水はどうなっているのだろう。そして、一番気にかかるのは、ご不浄なのである。
 
・肉屋の店先に牛の首がぶら下がって揺れていた。チュニジアの田舎町である。目をそむけて通り過ぎたかった。牛が深い二重まぶたであることをはじめて知った金色の長いまつ毛も、まだ艶があった。まつ毛の下の目は、妙にのんきそうで、格別怒ったり恨んだりしているようには見えなかった。立派な死に顔である。感心しながら、人はこんな顔では死ねないなと思った。牛は生まれたときから諦めている。人は、叶わぬと知りながら希望を持ち、生に執着しながら死んでゆく。牛を食べる人間のほうが、食われる牛よりおびえた顔をして死んでゆくのである。
 
 
「昔カレー」「昆布石鹸」「卵とわたし」「子供たちの夜」「ツルチック」「拾う人」「水羊羹」「蜆(しじみ)」「パセリ」「チャンバラ」「父の詫び状」「ごはん」「孔雀」「糸の目」「眠る盃」「メロン」「寸劇」「スグミル種」「人形町に江戸の名残を訪ねて」「味噌カツ」「牛の首」「シナリオ 寺内貫太郎一家2より」など。

 

いいなあ。深いなあ。ワタシは、子どもの頃は「スグミル種」だったけど、大人になってから卒業したかも。オススメです。(・∀・)