「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「誰がために医師はいる クスリとヒトの現代論」(松本俊彦)

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この本は、早くも今年読んだ本のベスト3入り間違いない!しかも驚いたのは著者は小田原出身だという。ワタシより3年後輩かあ。ほぼ同じ時代を生きてきたんだと思うとさらにほんの中身が響く。ここ十数年、芸能界やスポーツ界で話題になる薬物汚染。その本当の事実と治療の最前線が、ここにある!
 
「ある患者は違法薬物を用いて仕事への活力を繋ぎ、ある患者はトラウマ的な記憶から自分を守るために、自らの身体に刃を向けた。またある患者は仕事も家族も失ったのち、街の灯りを、人の営みを眺めながら海へ身を投げた。いったい、彼らを救う正しい方法などあったのだろうか?ときに医師として無力感さえ感じながら、著者は患者たちの訴えに秘められた悲哀と苦悩の歴史のなかに、心の傷への寄り添い方を見つけていく。同時に、身を削がれるような臨床の日々に蓄積した嗜癖障害という病いの正しい知識を、著者は発信しつづけた。「何か」に依存する患者を適切に治療し、社会復帰へと導くためには、メディアや社会も変わるべきだ――人びとを孤立から救い、安心して「誰か」に依存できる社会を作ることこそ、嗜癖障害への最大の治療なのだ。読む者は壮絶な筆致に身を委ねるうちに著者の人生を追体験し、患者を通して見える社会の病理に否応なく気づかされるだろう。嗜癖障害臨床の最前線で怒り、挑み、闘いつづけてきた精神科医の半生記」かなり長くなるけど、そのエッセンスを紹介しよう。
 
「なぜ先生はアディクション嗜癖(しへき))なんかに関心を持ったのですか?」私の答えは簡単だ。不本意な医局人事のせいです」。※ 嗜癖=「身体的・精神的・社会的に、自分の不利益や不都合となっているにもかかわらず、それをやめられずに反復し続けている状態」
 
アルコールと薬物、同じ依存症といってもさまざまな違いがある。特に違うのは発症年齢だ。アルコール依存症は燻し銀の中高年男性ならではの病気だ。一方の薬物依存症はそうではない。多くは10代半ばで社会不適応行動(=非行)の一つとして違法薬物の乱用が始まる。その後、学業からドロップアウトし、逮捕や服役を経験して、社会経験がほとんどないまま、早ければ10代終わり、典型的には20代から30代前半で専門病院につながってくるのだ。人生早期より「気分を変える」物質を必要とした背景には、しばしば過酷な生育歴が存在するということだ。
 
・「人は裏切るけど、シンナーは俺を裏切らないからさ」「人は裏切るが、クスリは裏切らない」自身のアディクション臨床のなかで、これと同じ言葉を何人もの患者から聞かされてきた。彼らは、安心して人に依存できない人たち、あるいは、心にぽっかりと口を開いた穴を、「人とのつながり」ではなく、クスリという「物」で埋めようとする人たちだ。しかし、矛盾した行為そのののが「人とのつながり」を求める気持ちの表れとはいえまいか?
 
薬物誘発精神病の治療はたやすい。しかし、本当の問題はその先なのだ。すっかり正気を取り戻して退院すると、患者は、拍子抜けするほどに簡単に薬物を再使用してしまう。私が急性期病院で提供してきたのは、再び薬物を楽しめる状態に戻してあげる」治療ともいえた。
 
・私は、「患者に、薬物が心身の健康におよぼす害を懇切丁寧に説明」すれば、患者はビビリ、彼らの行動は変わると確信していた。
 
・「自分より知識のねえ医者のところにどうして俺が来てんのかわかるか?わざわざ長い待ち時間に耐えて、金まで払って病院に来る理由がわかるか?それはな……クスリのやめ方を教えて欲しいからだよ
 
薬物依存者の自助グループであるナルコティックス・アノニマスのオープン・ミーティングに自分の仲間たちのことを知ってもらいたいので」参加してくれないかと誘われた。順番に登壇するスピーカーたちが、こうした薬物使用にまつわる自虐的で偽悪的な話をするたびに、会場は、それこそドッカン、ドッカンと爆笑に沸いたのだった。
 
・「先生、変な集まりだなぁって思いますよね?でも、この変なところに妙な力があるような気がするんです。変なほうが人は回復するというか。自助グループには二つの効果があります。一つは、過去の自分と出会うことができるという効果です。依存症という病気は、別名「忘れる病気」ともいわれています。私たち薬物依存者者は何度も断薬を誓い、何度も断薬してきましたーといっても数日単位、数時間単位の話ですが。逮捕されたり大失態を演じたときは深く反省して、断薬します。しかし、長続きしません。やめるのは簡単です。難しいのは、やめつづけることです」
 
・「なぜ難しいのかというと、薬物による苦い失敗という最近の記憶はすぐに喉元を過ぎてしまうからです。いつまでの鮮明に覚えているのは、使いはじめの時期の、はるか昔の楽しい記憶ばかりです」しばらく薬物をやめているとその気になればいつでもやめる力があることがわかったからもうしばらく使うことにしよう」とか自分が立てた誓いを簡単に忘れてしまうのです。
 
自助グループで一番大切にされるのは、新しい仲間です。その姿は、重大な決意を持った自分の姿を重なり、いまやすっかり喉元を過ぎてしまった記憶ー最後に薬物を
使ったときの苦々しい記憶を蘇らせ、初心を思い出させてくれます。つまり、過去の自分と出会い直すことができるのです。
 
もう一つは、未来の自分と出会うことができるという効果です。依存症者がなかなか薬物を手放せないのは、本人たちにとってそれが自分の重要な一部分となり、楽しいことも悲しいことも、薬物があったおかげで、仕事で成功をおさめたり、苦境を乗り切ったり、すばらしい出会いと経験したりした記憶もあり、自分の「盟友」「親友」のようなもの「ケミカル・フレンド」なのです。それを手放すことは一種の喪失体験ー長年連れ添った伴侶との別離にも似ています多くの薬物依存者がなかなか薬物を手放す決心がつかないのは、たぶんそのせいです。ところが自助グループでは、なんとか一年間やめつづけた人、3年やめつづけて気持ちにゆとりが出てきた人、10年、20年やめつづけ、薬物がない生活があたりまえの人に出会い、そこには近い未来の自分の姿を、遠い未来の姿があり、私たちに希望を与え、回復への意欲を刺激してくれるのです。
 
・人生のにおいてもっとも悲惨なことは、ひどい目に遭うことではありません。一人で苦しむことです。
 
・医療者ができるのは、海に溺れている依存症者に対して浮き輪」をーできれば絶妙なタイミングでー投げてやり、陸地のある方向を教えることだけでり、「浮き輪」をつかんで陸地まで泳いでいくのは、依存症者自身なのだ。
 
依存症は、道徳心の欠如や意志の弱さのせいではない。病気なのだ。
 
「クスリへの渇望が非常に強いのは40分くらい。この40分間、どうやっていのぐかが課題。俺の場合は熱いシャワーを浴びていた」「俺の場合は、激辛な食べ物を食うことだった」などは、説教や叱責で終始するよりは、はるかに具体的な対処としての価値があった。
 
アディクションに関してのこれまでとは違う二つの視点。一つは、トラウマ体験が引き起こす深刻な影響であった。そしてもうひとつは、薬物依存症の本質は「快感」ではなく「苦痛」である、という認識だった。薬物依存は、「快感」が忘れられない(=正の強化)のではない、その薬物が、これまでずっと自分を苛んできた「苦痛」を一時的に消してくれるがゆえ、薬物を手放せないのだ(=負の強化)
 
・ある女性患者が、自身が自傷行為をする理由心の痛みを身体の痛みに置き換えているんです。心の痛みは何かわけわからなくて怖いんです。でも、こうやって腕に傷をつければ「痛いのはここなんだ」って自分に言い聞かせることができるんです」おそらく自傷行為は「痛みをもって痛みを制する」行為なのだろう。トラウマ記憶という、自分では説明できない、コントロールもできない痛みから、ほんの一瞬でもいいから気を逸らすために、自傷行為という自分で説明もコントロールもできる痛みを用いているのだ。一時的には自殺を回避するのには役立っている。
 
性的加害行動も放火の犯罪の加害者である子どもたちの話を聴いていると、彼らこそが被害者であり、必要なのは刑罰ではなく、精神医学的・心理学的な治療なのではないかと思わざるを得なかった。
 
「このことを人に話したのはこれが初めてです。ずっと誰かが話を聞いてくれないか、質問してくれないかと、心のどこかでそう期待していました。でも、会う人、会う人、みんな期待外れでした。誰も質問しれくれませんでした」
 
・薬物依存症や自傷行為といった、これまで私が関心を持って数多く診てきた患者のなかには、自身の身体を改造する者が少なくなかったと思う。そしてその大半は、耳たぶ以外の身体部位へのピアッシングや、身体のさまざまな部位へのタトゥといったものであった。
 
本人が真に強く自殺を決意したら、いかなる治療や支援にも限界がある。もうひとつは、そうはいっても人は最後まで迷っている。
 
断言しておきたい。もっとも人を粗暴にする薬物はアルコールだ。さまざまな暴力犯罪、児童虐待ドメスティックバイオレンス交通事故といった事件の多くで、その背景にアルコール酩酊の影響があり、その数は覚醒剤とは比較にならない。
 
「人は薬物を使う動物である」天然に自生するさまざまな植物が持つさまざまな薬効を調べ上げ、その薬草から有効成分を抽出し、精製し、あるいは、人工的に化学合成して薬物をつくるり、病気の治療に用いたり、仲間との絆を深めるために用いたり、日々の憂さを晴らすために一人で用いたりする動物は、人間の他に地球上に存在しない人間はこの薬物を餅入り能力があったからこそ、さまざまな医薬品を作りだして多くの病気を克服して寿命を伸ばし、地球上にかくも繁殖してきたのではなかろうか。
 
どの民族、どの文化にもそれぞれお気に入りの薬物があり、その薬物を上手に使いながらコミュニティを維持してきたという事実だ。メキシコ人の大麻ペルー人のコカの葉など数え上げればキリがない。
 
この世には「よい薬物」も「悪い薬物」もなく、あるのは薬物の「よい使い方」と「悪い使い方」だけである。そして「悪い使い方」をする人は、必ずや薬物とは別に何か困りごとや悩みを抱えている。それこそが、私が医師として薬物依存症患者と向き合いつづけている理由なのだ
 
わかっていない。薬物依存症に罹患する人のなかでさえ、最初の一回で快楽におぼれてしまった者などめったにいないのだ。快感がないかわりに、幻覚や被害妄想といった健康上の異変も起きない。あえていえば、軽い不快感を自覚する程度だろう。つまり、薬物の初体験は、拍子抜け」で終わるのだ。
 
薬物使用者は、刑務所により長く、より頻回に入れば入るほど、再犯リスクが高まること、そして刑務所服役のたびに依存症の重症度が進行することを明らかにしている。再犯防止には、刑罰が有効ではないどころか、かえって妨げになっている可能性を示唆している。
 
・日頃の臨床から実感していたのは、規制を強化すればするほど、薬物による健康被害重篤化し、交通事故や暴力事件など、社会的な弊害も深刻化している、ということだった。むやみは規制強化はかえって使用者本人の健康と社会に対する弊害を深刻化させる。むしろ薬物を欲しがる人を減らす対策、すなわち、依存症の治療が有用だ」
 
ゾンビのような薬物乱用者など存在しない。外見は、ゾンビよりもEXILE TRIBEのメンバーに近いだろう。だから子どもたちは油断してしまうのだ。しかも、彼らは、これまで出会ったどんな人よりもやさしくて、真摯に自分の話に耳を傾け、はじめて自分の存在価値を認めてくれた人、自分にとって一番大切な人だ。そんな人が、手を差し伸べてこういうのである。「友だちになろうよ」薬物を勧められた際に「ノー」といわないのは、当然ではなかろうか。
 
・「中学時代、薬物乱用防止教室で警察の人が講師で来て、覚せい剤やめますか、人間やめますか」と繰り返していた。つらかった。当時、父親は覚せい剤取締法で逮捕され、刑務所に入っていた。「俺の父親は人間じゃないのか。だったら、俺もきっと人間じゃないな」と思った。それから自暴自棄になって、自分から不良グループに近づき、自分から求めて覚せい剤に手を出した」
 
ダメ。ゼッタイ。はもともとは国連が提唱した「Yes,To Life,No To Drugs」に由来する。直訳すれば「人生にイエスといおう、薬物にはノーといおう」超訳するするにしても、せめて自分を大切に、でもう薬物はダメ。ゼッタイ。程度にとどめるべきだった。この誤訳のせいで、わが国の薬物対策は、自分の「人生にイエス」といえない人、生きづらさや痛みを抱えて孤立する「人」たちへの視点を失ってしまったからだ。その結果、対策は、痛みを抱え孤立している「人」の存在を無視し、もっぱら薬物という「物」の管理・規制・撲滅に特化したものになってしまった。
 
・行き過ぎた予防啓発は新たな差別・偏見を作り出す。現在、新型コロナウィルス感染予防の気運が高まるなか、各地で感染者や医療関係者の家族が迫害され、他県ナンバーの車を排斥する運動が勃発しているのはその好例だ。それから、かつて「無癩県運動」がハンセン病に対する差別・偏見を強化し、感染者の排除や隔離といった人権侵害を引き起こした、というわが国の黒歴史も忘れてはならない。そして同じ文脈で、いま「ダメ。ゼッタイ。」が、薬物依存症を孤立させ、彼らを回復から遠ざける呪文となっている。だから、私は機会を捉えてはくりかえしこう主張しなければならない。「ダメ。ゼッタイ。」では、絶対ダメだ、と。
 
解剖実習から学んだのは、残念ながら生命の神秘や尊厳ではなかった。人体というものは、スクランブルエッグのような脂肪の塊がおびただしく詰まった肉の袋である、という厳しい現実だった。しかし、棺の蓋にチラリと遺体の名前が書いてあったのが見えた瞬間、後頭部を鈍器で殴られた感覚に襲われた。同時に遺体に対して畏敬の念が沸き起こったのだ。名前こそがー固有名詞こそがーその人の生きた証なのだ、と。誰かに愛しい思いを込めて呼ばれ、あるいは憎しみをもって呼び捨てられうなど、名前をめぐってさまざまな関係性や物語があったはずだ。そして私は考えたのだ。身体のどこかの部位や臓器ではなく、そのような関係性や物語を扱う医者は一体何科だろうか、と。
 
・かつて私は、わが国の精神科医療を「ドリフ外来」と評した。つまり「夜眠れてるか?飯食べてる?歯磨いたか?じゃ、また来週…」といったやりとりで、次々に患者を診察室に呼び込み、追っ払う。これは批判であると同時に自虐でもあった。医師にとってはその日の50分の1の相手だとしても、患者にとって主治医は一人だ。平均的な再診患者に割くことができるのは5〜10分だ。患者が抱えている問題の多くは未解決のまま先送りとなる。そんなときいったん兵を引いてもらおうとしてお薬を調整しておきましょう」なのだ、ボクサーのクリンチに似ている。
 
世界最古にして最悪の薬物、アルコール。確かにそうかもしれない。生涯と殺人事件の4〜6割、強姦事件の3〜7割、ドメスティック・バイオレンス事件の4〜8割にアルコールによる酩酊が関与しているという。これに飲酒運転による交通事故被害を加えたら、アルコールによる社会的弊害の深刻さは驚くべきだ。
 
「ベンゾ依存症患者」「精神科医は白衣を着た売人」「人類がアルコールに執着する理由は「酔い」」「「みすず」と伊勢治書店」など。
 
うーん……実に考えさせられる。著者のような人はもうテレビには出ないだろうなあ。この事実は報道されないだろうなあ。この本を読んで薬物についての真実をしった方がいいよね。超オススメです。(・∀・)

 

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