「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「ミチクサ先生(下)」(伊集院静)

いいなあ、夏目漱石っていいなあ。ぐっと身近な存在に思える。明治時代ってこんなカンジだったんだなあ。49歳で亡くなったとは信じられない風格と存在感。待望の下巻は、一気に読んじゃいました!♪ (・∀・)

 

「英語教師として松山で子規と過ごした金之助は、次に赴任した熊本では鏡子を迎えて新婚生活が始まる。英国に留学している間に子規は亡くなり、帰国すると帝国大学の教師に。高浜虚子から子規ゆかりの句誌ホトトギスに小説を書いてほしいと頼まれ、初めて書いた小説「吾輩は猫である」が大評判に。やがて東京朝日新聞の社員として連載した数々の小説で国民作家となり、後進の文学者たちにも多大な影響を与える――。処女作吾輩は猫であるがいきなり評判となり、坊っちゃん」で国民作家に」そのエッセンスを紹介しよう。

 

・金之助もあれほど美しい富士山を見たのは初めてだった。「私は、こんなに美しい富士山と海を、旦那さまが、どんな文章でお書きになるのか、読んでみとうございます」鏡子は陽射しに顔をかがやかせて、はっきりとそういった。二人が、あの場所で眺めた光景は同じはずだが、それをどう描写するかに興味が湧くと言う。ー面白い女性だ……。


金之助は文部省第一回の給費留学生となる。これまで医学や工学、法学の分野で、お雇い外国人中心だった大学教授に日本人をあてるために留学させたことはあったが、田舎の高校教師に白羽の矢が立ったのは異例であった。現職の身分のまま留学費1800円が支給され、留守宅には年額300円が支給された。


金之助の綴った日誌はまことに丁寧であった。今も、東北大学附属図書館に渡航日記」として収蔵されている。日本語と英語が混ざった文章は、内容もさることながら、一文一句をこれほど丁寧に記した日記を初めて見た人は、一様に声を上げてつぶやく。「まあ、なんと綺麗な日誌でしょう」たとえば、香港にお記述ではdiamondとrubyの綴がとても綺麗である。断腸亭日乗永井荷風と並んで、きわだった美しさである。

 

・金之助は妻、鏡子への手紙を書いて、自分の今までの行動を冷静に見ることができたと思った。大泥棒になってしまう日に誕生し、厄除けに金之助と命名されたことや、すぐに里子に出され、露天の古道具屋の籠に入れられていたという長姉から聞かされた自分の生い立ち。その後、生家と養家を往来し、学校を何度もあちこちに移り、ミチクサをして来た幼少時から、一高、帝大でエリートと呼ばれた時期。四国や熊本の田舎で教師面はしているが、三十歳を過ぎて、人の親になっているのに未だ生きる道も決まっていない。ーいささかミチクサをし過ぎたかな……。金之助は船を降りてベスビオ火山を眺めながら、雲仙や阿蘇の三景に似ているな、と感心していた。「旦那さまが、おやりになりたいことをなされば、それでいいのだと思います」耳の奥で鏡子の声がした。ー本当に、あれは佳い嫁だ……。


・金之助は一枚の絵の前で立ち止まった。それは、これまでに見たことがないような精緻で、優美な風景画だった。イリアムターナー、英国が誇る風景画家だった。

 

ヴェネツィアの大運河(メトロポリタン美術館ターナー

 

・案内された全員が、金之助が一枚の絵画の前で、まるでヴィクトリア朝の至宝であるかのように解説をしたと口をそろえる作品があった。それがミレイの「オフィーリア」である。

 


明治38年正月、ホトトギスの新年号は発売された。主宰者の高浜虚子は“戦勝号”との触れ込みで、新年号を売りさばいた。これが思わぬ売れ方をした。その新年号に漱石という作家の小説が掲載されていた。吾輩は猫である、なんとも奇矯な題名だ。作者は最初、“猫伝”なる題名を提案したが、虚子は一言の下に、否定した。

 

寺田寅彦「団栗(どんぐり)」は読んでみたいなあ。各作品誕生の背景が書かれていて臨場感あるよね〜!あらためて漱石の全作品を読もう!と決めました。超オススメです。(・∀・)