いつも思うのだけど、明治維新の頃、日本に初めて鉄道が敷かれた頃のことを思うと胸がアツくなる。普段、当たり前のように毎日利用している鉄道。これをゼロから作った人たちの夢と思いってどんなものだったんだろう。(・∀・)
さてこの本。「月刊旅の手帖の連載 「鉄道時間旅行 ―日本列島に線路がどんどんできていた頃―」を改題して、新書化。 明治〜昭和初期において、鉄道の存在は人々の夢が詰まった、はるかに大きなものだった。 鉄道敷設には必ず理由があり、設立当初は少なくとも一つ以上の使命を帯びていた。 鉄道車両や駅、ほか沿線に残されたものを掘り起こし、なぜそれらが必要だったのか、現在不要になったのかなど、歴史をひもとく」そのエッセンスを紹介しよう。
高崎線は日本で最初に民営の鉄道会社が敷設した路線だ。 その社名も日本鉄道株式会社。政府の財政危機に際し、 華士族らが創業させた。東京〜 京都間を結ぶ幹線鉄道の一部になるのを、見越し、養蚕・ 製糸業の盛んな地域に率先して敷かれた高崎線の歴史を辿った。
・「JR日光線 鉄路が目指すは国際観光地」
政府は明治7(1874)年、外国人内地旅行允準条例を制定。 それまで禁止していた外国人の旅行を許可制として、翌明治8( 1875)年から外国人旅行免状を発行する。 訪問できる場所は限定されていたが、日光は箱根や熱海とともに、 訪問可能な場所の一つであった。英国外交換アーネスト・ サトウは、英文のガイドブックに「4日間、 江戸からぬかるみの平地をたどって来た甲斐があった」 と記している。
・「御堂筋線 昭和の大阪に生まれた大動脈」
明治時代の都市交通として、東京には馬車鉄道もあったが、 大阪では普及せず、代わりに明治36(1903)年、 堀川を利用した巡航船が就航。同じ都市に、 公営では初めての路面電車・大阪市電が開業した。 新たな2つの交通手段の出現によって、 明治時代初期から市民の足であった人力車が衰退する。その後、 市電の拡張が進むと巡航船の利用者も減り、 大正に入るとその役目を終えた。「 100年先のことを考えて悔いのないような規模にすること、 費用を惜しまず最新の技術と設備を採用すること」 を基本方針に尽力した建築家・武田五一。開業当時、電車は単行( 1両)で運転されたが、 ホームの長さは将来を見越し12両分に設計された。 これを見た大阪市民のなかには「 電車は1両なのにホームが長くて、市長は頭おかしいんちゃうの」 と思わず口にする者もあったという。 利用者の増加で車両が大型化し、 現在は10両編成へとましたのだから先見性があった。 心斎橋駅のホームにいると、 そんな先人の先見性や工夫をその空間から感じることができる。
年齢とともにさまざまなモノの歴史を感じるなあ。先人たちの築いてきたものに感謝だね。オススメです。(・∀・)