「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「芸人人語」(太田光)

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爆笑問題が好きだ。二人とも一つ年下でほぼ同年代ということもあり共感できる点が多い。またいまだに漫才をやっているのがスゴイっ!生涯現役だよね〜!♪
 
「芸能界の薬物」「表現の自由」「大衆とテレビ」から「女帝とコロナ」「戦後レジーム」「菅首相誕生」まで、話題となった出来事を取り上げながら、人間社会の深層を考える。いじめも政治も漫才もコロナも相方の田中も、世の中のあらゆる事象は、すべてつながっている――。珠玉の言葉満載!朝日新聞天声人語」よりも深くて鋭い!渾身の20編」そのエッセンスを紹介しよう。
 
 
私は子供の頃からテレビっ子で、その頃テレビは不道徳なものだった。ドリフもコント55号も、PTAからいつも攻撃されていた。だからこそ面白かった。大人が笑って許してくれるような安全なものは刺激が少なく、面白くも何ともなかった。安全なものはつまらないが、倫理に反すれば大好きなテレビに出られない。私達はいつも自分の中にそういった矛盾を抱えていて、おそらくこれは芸人にとって一生解決されないものであり、テレビバラエティというものが抱え続けるジレンマでもあるだろう
 
・子どもだろうが、大人だろうが、人間には人の失敗を楽しむ感覚がある人間には人と人との違いを見つけ、面白がる感覚がある。コメディの基本はそこだ。人が転ぶと人は笑う。角に足をぶつけて、痛がる姿は滑稽だ。人と違った顔を人は笑う。その笑いの中に、人に共感する気持ちも同時に存在するのだ。だからこそ笑いは、イジメであり、人を救うモノにもなりうる。だからこそ笑いは危険なのだ。危険だからこそ人は欲するのだ。笑いは人を傷つけもし、救いもする。笑いは人を殺し、人を生かす。
 
音楽に罪はある。罪があるからこそ魅力的で、だからこそ、やっかいで、人の心を動かし、ある時は人を予想出来ない道へ導き、ある時は死を思いとどまらせ、ある時は、絶望の縁に追いやることもある。音楽や芸能に近づかなければ怪我もしないかもしれない。しかしそれがなければ、人間は生きていけない。危険だろうが、何だろうが、人は音楽を聴き、芸能を観る。
 
・この世界には、一生かけても読み切れないほどの書物があり、観きれないほどの芸術があり、知り得ないほどの法則があり、数え切れないほどの数式があり、無限に近いほどの人の歴史がある。それらは全て、過去の人々が命とは何か」を問い、もがき苦しんだ痕跡なのだ。
 
・芸だけで食べていくことに必要なのは、「一生恥をかく」という覚悟だ。その為なら、どんな失敗もする、という決意だ。
 
・教師は学問を教えればいい。国語、数学、理科、社会、歴史、地理、体育、美術。それぞれジャンルを分けているが、実はこれらの全ては「生きる意味」「命とは何か」と問い、人間が思考してきた痕跡だそれぞれのアプローチで世界と命を解き明かそうとしている。
 
「科学的」とは何だろう。「人との接触を80%減らす」とは私の場合何をどうすればいいんだろうあるいは長年引きこもっているような人は、どう80%減らすのか。「科学的」とは何か。私は昔から「科学的」という言葉の「曖昧さ」が気になっていた。だから「科学的」という言葉が嫌いだ。「科学」に「的」を付けた「科学的」という言葉ほど「文学的」な言葉はない。君の言っていることは科学的じゃない」とか「科学的根拠を示せ」という言い方ほど、「科学的根拠じゃない」言い方に聞こえる。
 
私の考える「世界」は、ほとんどがこの「無駄」で出来上がっていて、私は今まで大半の時間を無駄に過ごしてきた。仕事は漫才。無駄の極致だ。私は無駄の中で生きている。無駄が私を生かしている。だから他の人より世界から無駄が無くなることへの危機感を切実に感じるのかもしれない。
 
・コロナはテレビから空間を奪った。豪華なセットもひな壇も、いわゆる「ガヤ」と呼ばれる芸人達もいない。壮大な無駄を総動員して笑わせよう、楽しませようというテレビの世界に憧れを抱いたのだ。そこにはあらゆる「間」が存在した。「空間」つまり「空」の「間」だ。
 
・尊敬する向田邦子さんの脚本は、いかに言葉にしないことが重要かを思い知らさせる作品ばかりだ。向田さんの凄まじさはセリフ以外の部分に真実の表現があり、セリフはセリフで語らない部分を表現する為に書かれているのではないかと思うほどだ。つまり向田さんはセリフを書きながら「間」を浮き上がらせている。表現したい部分は、言葉にしえいない部分。という、まさに天才だ。
 
・緊急事態宣言以降、テレビで漫才を何度かやった。無観客。私と田中の間にアクリル板を立てて、それぞれの距離を取った。結果はボロボロだった。あれでは漫才は出来ない。ソーシャルディスタンスは漫才から多くの「間」を奪った。当然会話も「間」がズレる。そして何より無観客というのは、聞かせる相手であるお客さんが目の前にいない。テレビの向こうにいるのだ。重要なのはお客との距離を認識できるかどうかということだ。大切なのはお客との「間」だ。それを感じなければ声の出し方が決められない。田中との間が狂えばテンポがずれる。アクリル板は息遣いを聞こえにくくし、呼吸が合わなくなる。
 
・実は漫才師は誰もが多少の差こそあれ、劇場の大きさ、客の数、込み具合、舞台の広さによって微妙にテンポや声の張りを変えている。ホールの場合我々はハンドマイクで漫才をした。舞台をいっぱいに使い歩き回りながら、時に離れ、時に近づき、客席にこちらから近づいたり、離れたり。いろいろな動きをしんがら会場全体を巻き込むようにする。漫才のテンポは全体に伝わるように極端にゆっくりにし、空間、距離をこちらが動きながら調整し、一番あった状態にする。つまりやはり全ては「間」だ。今まで客に呑まれるという経験は確かに何度かしたことがあるが、無観客に呑まれる経験は初めてだ。
 
その他、「“いとしのレイラ”はクラプトンが薬漬けの頃、ジョージ・ハリスンの妻を思って作った曲」「舞台芸術朝倉摂」「二十一世紀に生きる君たちへ(司馬遼太郎)」など。
 
思慮深いねえ。自分の考えをちゃんと言葉に明確にすることができるなんて、太田は頭がいいんだなあと思う。オススメです。(・∀・)

 

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