「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「「覚える」と「わかる」知の仕組みとその可能性」(信原幸弘)

2025年も10日目となると本来のリズムを取り戻しつつあるよね。なんか今年はさらに良いことが起こる予感がする。なんとなく。根拠はないけど。(=^・^=)


覚えた!わかった!と素朴に使うけど、その時、人間のなかでなにが起きているのか。丸暗記、真似る、理解といった働きから、批判的思考や知の可能性までを探る」そのエッセンスを紹介しよう。

 

・この本では、人間の知能がどのようなものかを考える。そしてそれがどのように使用されているかを見ていく。人間は脆弱な動物であるにもかかわらず、地球上でこれほどの繁栄を成し遂げることができたのは、何といってもその知能の高さゆえであろう。人間は他の動物と比べて、ケタ違いに高い知能をもつこの並外れた知能のゆえに、人間は地球を支配し、百獣の王として君臨している。

 
・しかし、その一方で、知能によるマイナスの側面も出てきている。大きな話で言えば、人間の旺盛な知的活動が、巨大な産業を産み、地球温暖化という危機的な状況を生み出している。人間はその過激な活動によって、地球と人間自身を未曾有の危機に落とし入れているとも言えるのだ知能はどう使えばよいのだろうか。知能は善にも悪にも用いられる。
 
SNSで誰とでも簡単にコミュニケーションができるようになってとても便利になったが、その半面、悪質な誹謗中傷やフェイクニュ ースが後を絶たない。知能の輝かしい成果にみえたものも、その裏側には暗い一面がある。
 
・また、ロシアがウクライナに侵攻するという悲劇も起こっている。このような戦争による悲劇は二〇世紀で終わりを告げ、二一世紀にはもう生じないのかと思いきや、相変わらず人間は独断的な正義と不条理な闘争を止めることができない。科学的な知性は果 しなく進化していくが、社会的な知性はほとんど進化しないようだ。
 
・人間はその卓越した知能のゆえに、つぎつぎと新しい世界を切り開いてきたが、その世界を実り豊かで生き甲斐のあるものにするためには、知能をどう使えばよいのだろうか。知能は善にも、悪にも用いられる。善い目的で開発された科学技術が悪い目的にも 使用されうるという問題が、科学技術の開発において重要な懸念事項となっている。
 
そもそも人間の知能がどんな働きをしているのかを多面的に見ていきたい。そのために、まず「覚える」「わかる」という言葉を手がかりにして、 人間の知能の基本的な働きを見ていく。第一章では、「覚える」という働きを取りあげ、 たとえば、身体で覚えることや感覚を覚えることなどを見ていく。
 
・日本人初のノーベル物理学賞の受賞者の湯川秀樹も、幼いころから漢文の素読を祖父にやらされたそうである。漢文の素読とは、意味がわからないまま、ただ漢文を声に出して読むことである。意味もわからずに、ただただ読む。それは湯川少年にとって なかなかつらいことであったようだが、その後、大人の書物を読み始めるときに、おおいに役に立ったそうだ。漢字への慣れにより、文字への抵抗がまったくなかったのである。
 
大事なことは、理解しようなどと思わずに、とにかく全文を読みきることだ。なまじ理解しようと思うから、理解できなくなると、挫折する。最初から理解を求めなければ、最後まで読みきることができる。
 
意味がわからなくても、文字面だけでも結構楽しいものがあるそれを頼りにとにかく読む。そして繰り返し読む。もちろん、そうしたところで、わからない箇所が多すぎるから、読書百遍意自ずから通ず」というわけにはいかない。それでも暗記するくらい繰り返し読んでおけば、そのあと必死の理解を試みることで、何とか理解できるようになってくる。理解できないまま全文を読みきることが理解に至る必須の条件なのである。
 
・いまの時代、そう頑張って暗記しなくても、ネットで検索すれば、必要な情報はすぐ手に入る中国の歴代王朝も、漢文や経典のテキストも、哲学の古典も、検索すれば、直ちに閲覧できる。わざわざ図書館に行く必要はないし、本屋を探し回る必要もない。情報がすぐ手に入るのであれば、それはいわば暗記しているのと同じではないか。
 
理解を伴わない暗記は、情報をただ脳のなかに貯めこんでいるだけだ。脳のなかでなくても、すぐ取り出せるなら、ネットやパソコンのなかでもよいのではないか。こういった意見もよく耳にする。
 
・たしかに、いまのネット全盛の時代になって、暗記の価値は下がった。このことは認めざるをえないだろう。文字が発明されて、情報が文書として記録できるようになると、 暗記の価値は大きく下がったが、ネットですぐ検索できるようになると、暗記の価値はさらに下がったと言わざるをえない。しかし、それでも、暗記にはまだまだ重要な価値が残されている。ネット検索ですぐ情報が手に入るといっても、暗記した情報を思い出すのに比べれば、かなり時間がかかる。瞬時に思い出せる心地よさに比べて、 索はまどろっこしい。余計な広告が表示されるから、なおさらだ。
 
・しかも、ネット検索では、理解に至る助けにならない情報がネットやパソコンにあるだけでは、たとえそれがすぐ引き出せるとしても、情報はただそのまま蓄えられているだけで、何の変容も生じない。しかし、暗記していれば、理解していなくても、情報 は無意識のうちにいわば「整理」されていく具体的にどのようなことが起こっているかはまだよくわからないが、暗記した情報のあいだに何らかのつながりが生まれてくる。
 
・たとえば、同じ言葉が異なる情報に含まれていれば、それによってその異なる情報のあいだにつながりができてくる。このように情報が「整理」されると、それがのちの理解の助けになるのである。
 
いったん悪い癖がついてしまうと、そこから脱するのは並大抵のことではない。なに しろ身体が変形してしまったのだから、それを元に戻さなければならないこの変形を元に戻すためには、少なくとも 身体が変形するのに要したのと同じだけの時間と労力が必要となろう。悪い癖がついてしまってから良いコーチについても、それはゼロからの出発ではなく、マイナスからのスタートになってしまう。
 
身体で覚えるのは、身体そのものを作らなければならないから、非常にたいへんだ。 いわゆる座学は、先生の話を聞いて頭で覚えるだけだから、身体を使う必要はほとんどない。しかし、実習や演習になると、身体で覚えることが中心になる。慎重に正しい手 順で身体の訓練を行うことが、実習や演習では何よりも重要となるのである。
 
マークス問題という興味深い問題がある。これは、生まれつき眼の見えない人が
手術を受けて眼が見えるようになったとき、その人は立方体と球を頭で見ただけで、 どちらがどちらでからが正しく言い当てることができるだろうか、というものである。 この問題は、すぐ決着がつきそうにみえて、なかなか決着がつかない。それ は、開眼手術を受けても、すぐには事物が見えないからである。事物が見えるようになって可能になるのである。 このような驚嘆すべき知覚能力も、長年の経験によって培われた感覚、運動スキルによるからである。
 
・ソムリエや指揮者は常人には想像もできないような繊細な味覚や音感をもっている。ソムリエはワインの味を、そのワインの産地や何年ものかなど、驚くべき詳細さと正確さで識別できる。交響曲の指揮者も、膨大な数の音の響き合いのなかから、それぞれの音を正確に聞き分けることができる。この人たちのほかにも、たとえば、天文学者は夜空に超新星を見ることができるし、医師はレントゲン写真に病巣を見ることができる。
 
・言葉の意味はどのようにして習得されるのだろうか。さきに述べたように、言葉の意味は言語ゲームにおける使用である私たちは幼いころから、さまざまな言語ゲ ームに参加して、言葉の使用を学んでいく。大人がどう使っているのかを観察し、それをまねて自分でも使用し、間違っていたら修正を受け、やがて適切に言葉を使えるようになる。それはじっさいに言語ゲームに参加しながら実践的な練習を行い、それによっ て言葉を適切に使用する能力を獲得することにほかならない。言葉の意味の習得は、言葉の使用能力の獲得なのである。
 
・したがって、言葉の意味を知ることは、言葉の使用能力という技能知をもつことにほかならない。命題知はこの技能知によって支えられている。命題知は練習なしに獲得で きてまことに便利だが、その背後には膨大な練習によってはじめて獲得できる技能知が働いているのである。
 
やっぱり「繰り返し反復」によって身につくんだね。ナットク!さあ、今年は何を反復していくかな。オススメです。(=^・^=)