母が、私が音楽をやっているのを見て「お前はいいねえ〜。いい趣味を持っていて」と頻繁に言う。ハテ…!?……趣味、趣味、趣味なんだろうか……!?一度も趣味とは思ったことはないのだ。趣味じゃないとすると……うーん……例えていうと「人生」「日常のすべて」「生きがい」なのかな!?そう考えると「無趣味」なのかもしれない…。(・∀・)
・まわりを見ると、趣味が花盛りだ。 ありとあらゆる趣味の情報が愛好者向けに、 また初心者向けに紹介される。趣味が悪いわけではない。だが基本的に趣味は老人のものだ。 好きで好きでたまらない何かいに没頭する子どもや若者は、 いずれ自然にプロを目指すだろう。わたしは趣味を持っていない。小説はもちろん、映画製作も、 キューバ音楽のプロデュースも、 金銭のやりとりや契約や批判が発生する「仕事」だ。 息抜きとしては、犬と散歩したり、スポーツジムで泳いだり、 海外のリゾートのプールサイドで読書をしたりスパで疲れを取った りするが、とても趣味とはいえない。現在まわりに溢れている「 趣味」は、必ずその人が属す共同体の内部にあり、 洗練されていて、極めて完全なものだ、 考え方や生き方をリアルに考え直し、 ときには変えてしまうというようなものではない。 だから趣味の世界には自分を脅かすものがない代わりに、 人生を揺るがすような出会いも発見もない。心を震わせ、 精神をエクスパンドするような、失望も歓喜も興奮もない。 真の達成感や充実感は、 多大なコストとリスクと危機感を伴った作業の中にあり、 常に失意や絶望と隣り合わせに存在している。つまり、 それらはわたしたちの「仕事」の中にしかない。
・「好き」という言葉は曖昧だ。 わたしは小説を書くのが好きではない。 じゃあ嫌いなのかというとそうでもない。 おそらくそれがなくては生きていけないくらい重要で大切なものだ が、非常な集中を要するので、とても好きとは言えないのだ。 わたしにとって小説を書くことは好きという言葉の枠外にある。 子どものころから文章を書くことは得意だったが、 好きではなかった。 もし自分が小説を書くことが好きだったらどうなっていただろう、 と考えることがある。もし好きだったら、 たぶん日常的な行為になっていただろう。 つまり特別なことではなくなっていただろう。なぜ好きなの? どう好きなの?と聞かれても、うまく答えられないのだ。「好き」 が脳の深部から湧いてくるもので、 その説明を担当するのは理性なので、 そこに本来的なギャップが生まれるからだが、逆に、 他人にわかりやすく説明できるような「好き」は、 案外どうでもいい場合が多い。
やっぱり「好き」のエネルギーって最強だよね。無趣味ということを誇りに生きよう。オススメです。(・∀・)♪