「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「ソニーはどうして成功したか 井深、盛田の起業家精神」(垰野堯)

ワタシの人生の中の転機は、32歳のとき、ソニー生命保険にヘッドハントされたことだ。もう30年近く前なのかあ!それ以前とそれ以降では、考え方、行動、スキル、人脈と人との関わりがまったく変わってしまった!♪ 

何より、なぜソニーが生命保険業界に進出したのか!?プルデンシャルの坂口陽史とソニーの盛田昭夫のドラマとストーリーに惚れ込んで、日本の保険を変えていくその一員になりたい!と思ったのだ。涙を流して感動したことをいまでも覚えている。
ソニーが、ソニースピリッツが好きっ!!!

さてこの本。いいなあ!やっぱりソニーが好きっ!!!盛田さんと井深さんだよ。いいなあこの考え方、二人の言葉!!!ソニーという会社をここまで成功に導いた二人のカリスマ的なとなりはどんなものだったのか、事に当たって例を考えどう行動したのか、 
そのエッセンスを紹介しよう。

 
・ 「戦後企業のソニーは、どのように急雨成長したのか。会社をここまで成功に導いた二人のカリスマ的な起業家井深大とい盛田昭夫。彼らは事に当たって何をどう行動したのか。その人となりを解き明かす」そのエッセンスを紹介しよう。
 
・ソニーを語る場合、なんといっても井深大と盛田昭夫という二人の人物の出会いを抜きにすることはできない。
 
・戦時中、井深は社員一千人を超える日本測定器という会社で、軍関係の電波や電子を使った兵器の研究や、音叉発信機(後のレーダー)など兵器の製造を手がけていた 。
 
・1945年(昭和20年)8月15日、疎開先の長野県須坂で終戦の詔勅を聞いた井深は、予感はしていたものの敗戦が現実のものとなったショックは大きかった。そこで、ただちに東京へ帰ることを決断している。当時の東京は米軍の爆撃によって廃墟となった焼け野原で、まともに仕事ができる状態ではなかった。その日の食料をどうするか、どこに住むかといった生活にかかわる問題の方がはるかに優先した。
 
したがって井深のこの決断に対し、社員は少なからず動揺したようだ。
 
「東京に帰っても食べる物も住むところもない。多分、街は混乱しているだろうし、 、もう少し落ち着いて状況がはっきりしてからでも遅くないのではないか・・・・・・」という反対意見が大勢だったという。
 
須坂の日本測定器は二万坪ものりんご園を改造して作られた軍事工場である。敗戦によって工場閉鎖はまぬがれなかったが、食住に困ることはなかった。
 
そこで井深の出した結論は「残留したいと思う者はその意志を尊重しよう。そのかわりこの会社の残務整理をお願いしたい。その後共に仕事をしようと決心したら来るといい。 そうでない者は一緒に上京しよう」というものだった。最終的に井深と行動をともにした者はわずか七人だけだった。
 
井深は、何事にあたっても一旦こうと決めたら、すぐ実行しないと気がすまない。非深はなぜ東京へ帰ることを急いだのだろうか。それは、「新しい技術によって広く人々の役に立つ仕事をしたい」ということにつきる。
 
・しかし、井深と東京へ出てきた者にとっては最初から苦難が待ち受けていた。まず、自分の生活の基盤作りから、事務所探し、それに新会社の設立。それにもまして、どんな仕事をするのかも決まってはいなかったのである。まさにゼロからの出発だった。
 
それでも非深を中心に皆な意気軒昂だった。八方歩きまわり、十月には知人の紹介で外形だけが残っていた日本橋自木屋の一階に念願の事務所を開いている。須坂を出て一カ月後のことである。
 
・ソニーはよく戦後第一号のベンチャーだと喩えられる。他にない技術力で成長したという点では、そうともいえるが、実態はそんな言葉で片付けられるほど甘いものではなかった。いみじくも井深は、「ベンチャーを目指す企業には技術や資金よりも思想が必要だ」と喝破している。
 
・「やっと皆と一緒に仕事ができるようになった。しかし、今は物の不自由な時代である。闇屋のような商売でもやれば、もっと稼げるかもしれない。皆にももっとよい待遇ができるかもしれない。しかし、私はそういうことはやりたくない。とにかく世の中の為になる新しい技術を拓くということで、苦労してでもやっていきたいと思っている。皆もそのつもりでついてきてほしい」。
 
・会社でも新円稼ぎにやっきになったものである。東通工も例外ではなかった。なんとかして新円が稼げる手軽な商品を売り出そうということになり、かえられたのが電熱マットというインチキ商品だった。売り出しにわたってさすがに気がとがめたらしく会社の名は入れるわけにいかず、「銀座ネッスル商会」としゃれて売り出した。
 
・どんな人がどこで使っても本来の機能を発揮するものこそ本物の商品であるはずだ。それは一般大衆向けの商品にしか存在しない。
 
・物作りこそソニーの真髄なのである。その中でも自分たちの得意なもの、人のやらないものに徹したことである。人のやらないもの、とは世の中にないものといい換えてもいい。それに常に新しいものを意識していた。
 
・井深は生前よく「ソニーが物作りを忘れたらソニーとしての役割はなくなる」と口にしていた。とくに最近流行りのマネーゲームなどについては「お金だけのやり取りが、お金を生むというのは健全ではない、そは虚業だ」
 
 
・紙のテープで音が出る、その機械を見ることができる、と一同大感激。まさに初めて見るアメリカの優れたビカビカのテープレコーダーに穴のあくほど見入ったという。そして、「こんな商品がわれわれの手で作れたら・・・・・・ 」と、ますます勇気が湧いてきたというから不思議である。
 
・テープレコーダーをやると決めた以上、なにが何でも突き進もうというのがの皆の気持ちである、テーブにしても当時プラスチックといった素材はない。磁気材料にはどういうものが適しているのか、皆目見当がつかない。 
 
・ソニーの物作りの歴史を見ると、やはりその出発点となるテープレコーダーとそれに
続くトランジスタをはずすわけにはいかない。東通工時代に挑戦したこの二つのプロジェクトこそ、その後のソニーを成功に形く原点であったといってもいい過ぎではない。
 

・帰国後、ただちに井深はこのトランジスタのことを盛田に相談している。真空管を作った経験もない東通工にできるだろうか、というのが共通した疑問だった。とくに井深はウエスタン社からの情報入手の際、トランジスタで何を作るつもりか、と聞かれ即座に「ラジオだ」と答えている。これに対しウエスタン社の幹部は口を揃えて「この技術を買ったアメリカのメーカーもラジオを目標にしたが、全部行き詰まっている。それだけはやめた方がいい、アメリカでは補聴器だけだ」といっていたことを思い出した。難しいとなればますます素通りできないのがこの二人である。「スジはいいのだから、 やるだけのことはやってみたいね」から「やりましょう」の結論までに時間はかからなかった。

 
このG型発売を機に東通工では「テーブコーダー」という商品名の登録商標をとり、またテープには「ソニ・テーブ」と名づけて後発メーカーとの差別化をはかっている 。
 
・さて、G型テープレコーダーが完成したことによって、盛田は「日本で初めてのテーブレコーダーができたのだから、これは飛ぶように売れるに違いない、これでわが社も大儲けができる」と単純に大喜びしたという。ところがである。いざ販売を始めてみると、だれもが「面白い、便利なものができたものだ」と感心はするが、買いたいという人は一人も出てこない。あちこちでデモンストレーションが続いた。それまで自分の声というものを録音して聞いた人はだれもいないわけだから「これがオレの声か」と首をかしげる者、ゲラゲラ笑い出す者、喜ぶ者、さまざまで「これは遺言にいい」という人まで出る始末。だが、買いたいという人はいない。多組の開発費と時間をかけた日本で初めての画期的な新製品である。売れないはずがない、と療用は考えていたが結果は毎日同じで売れない日が続いていた。世の中に初めて出た商品である。だれも使い方も価値も知らないのだ。「そうだ。このことに気がつかなかった」
 
・「テープレコーダーという面品は音声を記録し、再生する機械だ。この機能を必要とするところへ持っていかないとだめだ。まだ一般の人は必要としていない」
 
・「どんな商品にもマーケット(市場)があるが、新しい商品というものは、だれもその機能や便利さを知らないわけだから、人々にそのことを十分知らさなければマーケットにはならない。つまりマーケットはいつでもそこにあるものではなく、啓蒙活動や場合によっては教育などを通じて育て作っていかなければならない。マーケット・クリエーション、マーケットは開拓するものである」
 

・「商品はお客さんに売って代金をいただくと終りのようだが、本当は売った時から始まるのだ。お客さんに、その商品を使っていただいている間は常に当社のお客である。それを忘れてはならない」

 

・「ソニーなんかだれも知らない。当社は五○年もかかって世界に知られる会社になったのだ。お前はビジネスというものが何も分かっていないな」ブローバーの社長は笑っていった。盛田は反論した。「では聞くが、五〇年前あなたの会社を何人の人が知っていたのだ。私は五○年前のあなたと同様に今第一歩を踏み出したところだ。五〇年後にはあなたの会社に負けないくらいの『SONY』ブランドにして見せる。この話はノーサンキューだ」

 

・ここで一つ断っておくことがありそうである。それはテープレコーダーもトランジスタラジオもソニーのオリジナル技術ではないではないか、という疑問である。これは世の中の学者のなかにも「日本には発明、発見がない」という発言にも見られるように、物作りが分かっていない見方である。あのエジソンでさえ「発明、発見を一とすれば、それを企業化するには九九の努 力と時間が必要である」といっているように、技術開発というものは原理が分かれば済むものではない、ということだ。
 
・井深の技術に対する考え方はこうである。「日本では発明の価値を非常に高くみる傾向がある。発明は単に発明にとどまる。発明のウエートを1とすると、それが使えるか使えないかの見極めが10、企業化するには100のウエートがある 」と語っている。
 
「アメリカの宇宙開発、アポロ計画でも、日本の新幹線でも一つも新しい発明はない。あるのは発想と開発だけだ。大切なのはどうして産業に結びつけるかということにつきる。これが私のいう創造である」
 
・ ちなみにソニーは技術開発分野でのノーベル賞と称される「エミー賞」を、これまではトリニトロンカラーテレビ、VTR、CCD、ベータカムなど合計23作での受賞に輝いている。
 
・「これからのわが社は世界をマーケットに伸びていかなければならない。そんな時、いまの社名では認知してもらえない 、どうしても世界で通用する社名が必要なのだ」
 
・「世の中に初めて出てきた商品はそれまでだれも知らない。だれも知らないものの需要は調査しようがないのだ。マーケットリサーチを依頼する方が間違っている」(井深大)
 
・「大衆が求めているものを調べてから、ものを作っていたのでは、間に合わない。1年先、5年先を考えて、その時なにが受け入れられるか、マーケットを逆に開発していかなければ間に合わない」(盛田昭夫)
 
・「技術というものは、常に新しい製品を生み出すための手段である。時代は変化していくものであるとすれば、決まったことを決まったようにやっていては時代遅れと考えなければならない。産業となり得るものはいくらでもある。モルモット精神を上手に生かしていけば、いくらでも新しい仕事はできる。トランジスタにしても欧米では消費者
向けのラジオに使うことなど見向きもしなかった時、私達はラジオの製造に乗り出した。これが今日の日本をトランジスタ大国にまで発展させた要因である。つまりモルモット精神の勝利といってもいいのではないだろうか」
 
・「皆さんが数ある会社の中でソニーを選んで来てくれたことは光栄です。しかし、皆さんは自分を磨き、早く自分の得意な仕事をソニーの中で見つける努力をしなければなりません。というのもソニーは皆さん一人一人の仕事を用意して待っていたわけではないからです。そしてこの会社には自分の仕事はない、と思う人は早く他の自分に合った会社に変るべきです。なぜかというと、そういう人は他の人の重荷になるだけでなく、これから長い貴重な人生を無駄にすることになるからです」
 
井深さんの幼児教育に興味を持つ背景がすごいなあ。ここでスズキ・メソードの鈴木鎮一さんが出てくるとは!

 

やっぱりソニーの「人のやらないことをやる」、明治大学の校風の「個を大切にする会社」、ワタシの師匠の「この世の中にないことしかやったことがない」というマインドが、ワタシのメンタル作っているようが気がする。超オススメです。(=^・^=)