一日一冊一感動!小野塚テルの『感動の仕入れ!』日記

タイトルは、『一日一冊一感動!小野塚テルの感動の仕入れ!』日記。 毎日の読書、映画、グルメ、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。(ときどき「酒場のギター弾き」「B級グルメ」も紹介します)

「江戸小ばなし考」(加太こうじ)

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江戸小ばなし考―落語のふるさとをたずねて (1968年)

江戸小ばなし考―落語のふるさとをたずねて (1968年)

  • 作者:加太 こうじ
  • 出版社/メーカー: 佑啓社
  • 発売日: 1968
  • メディア:
 

 古〜い本を図書館で借りました。ナント!1968年だから昭和43年だね。この本は「笑話」だけどね。(笑)テーマは江戸の小ばなしだから、まったく中身は古くない、というかもともと古いからね。(笑)(・∀・) そのエッセンスを紹介しよう。

 

・落語には小咄に尾ひれをつけて長くした話が多い。その点、江戸小咄は落語の原型だともいえる。落語が世態風俗の描写を中心としたこっけいとすれば、江戸小咄のほうは、その笑いの部分だけをとりだしたようなもので、単的な笑いの錠剤であり、江戸時代の笑いのエッセンスだといえよう。
 
・落語とか、笑話というものは、町人の力がつよくなって、支配階級だった武士の力が弱まった江戸時代の中ごろから、さかんになった町人芸術であり、いわば、庶民の芸術だといえる。
 
笑いというものは、誰が誰を笑うか、そういうことが、はっきりしなくては、笑いの芸術は成立しない。もし、笑いの芸術を、単なる要素とか原形にとどめるなら、それは三通りしかない。「ひとつは、人間が機械的な動作をすること」「ひとつは、ウィット(頓知、機知)のおもしろさ」「ひとつは、とりちがい、思いちがい」である。
 
・「うちの亭主はきょうで二十日ばかり帰らぬが、もう帰りそうなものだ。米もなし、味噌にも困り、いろいろきれたものだらけ」と小言のところへ亭主がかえり「おれもとうに帰りたかったが、工面できねえ、どうだ、うちにきれたものはないか」「米もきれた、味噌も薪(まき)もきれた」「ほかになにも、きれぬものはないか」「あい、切れぬものは庖丁ばかりさ」
 
・ある男、浅草の観音さまにねがってなにとぞ金銀をあたえたまえ」という。観音あわれに思いて金銀をたまわる。男、あまりのうれしさに押しいただいて、ひたいに金銀をつければ、こはいかに。金と銀がひたいについてはなれぬ。男、こまっているところへ、連れの将棋好きの男がきて「どうした。ふーん、ひたいに金と銀がくっついてとれねえ、それなら鼻のあたまへ桂馬を打て」
 
・泥棒が夜中にこっそりきて、観音さまのお賽銭を盗んだ。箱へ入れて背負って仁王門をでようとすると、仁王が見つけてむんずとつかまえて、ねじ伏せて大きい足でふむ。「うぬは何やつだ」泥棒はふまれたはずみに一発ブウ、仁王、鼻をつまんで「くせえやつだ」泥棒「仁王(臭う)か」
 
藪医者とは流行性感冒ーすなわちカゼが流行るとカゼヒキを直すために仕事にありつくー。カゼで動くから竹藪のような医者という意味である。
 
・たこ、あまりの暑さに橋の下へでて昼寝をしている。それを猫が見つけて足を七本食い、一本だけ残しておく。たこ目をさまして「足を七本食われた」と向こうを見れば猫がいるゆえ、「あの猫が食ったか、かたき討ちをしよう」と、一本の足をあげて猫をまねけば猫「その手は食わぬ」
 
・水泳ぎをしても、おぼれないおまじないがあるときいて、ある男、おまじないを受けにいく。もったいぶった老人が出てきて、男を裸にすると、へそのあたりを縄でひと巻きしてしばった。これがおまじないですか。本当にききますかな」「うむ、この縄をぬらさねばききめはあきらかじゃ」
 
「どう思案をしてみても、ゼニのないのは仕方がない。こういうときには神仏にすがろう」と、毘沙門天にしきりに祈りが、ある夜、夢に毘沙門があらわれて「なんじが願うところ、かないがたし」とのたまう。この者、大いにおどろきて、「それは何ゆえ」と涙ながらにたずねれば、毘沙門「はてゼニなき衆生は度しがたし」
 
いいなあ、いまでも使えるこのギャグ!逆に新鮮かも!オススメです!(・∀・)

 

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江戸小ばなし考―落語のふるさとをたずねて (1968年)

江戸小ばなし考―落語のふるさとをたずねて (1968年)

  • 作者:加太 こうじ
  • 出版社/メーカー: 佑啓社
  • 発売日: 1968
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