古〜い本を図書館で借りました。ナント!1968年だから昭和43年だね。この本は「笑話」だけどね。(笑)テーマは江戸の小ばなしだから、まったく中身は古くない、というかもともと古いからね。(笑)(・∀・) そのエッセンスを紹介しよう。
・落語には小咄に尾ひれをつけて長くした話が多い。その点、 江戸小咄は落語の原型だともいえる。 落語が世態風俗の描写を中心としたこっけいとすれば、 江戸小咄のほうは、 その笑いの部分だけをとりだしたようなもので、 単的な笑いの錠剤であり、 江戸時代の笑いのエッセンスだといえよう。
・落語とか、笑話というものは、町人の力がつよくなって、 支配階級だった武士の力が弱まった江戸時代の中ごろから、 さかんになった町人芸術であり、いわば、庶民の芸術だといえる。
・笑いというものは、誰が誰を笑うか、そういうことが、 はっきりしなくては、笑いの芸術は成立しない。もし、 笑いの芸術を、単なる要素とか原形にとどめるなら、 それは三通りしかない。「ひとつは、 人間が機械的な動作をすること」「ひとつは、ウィット(頓知、 機知)のおもしろさ」「ひとつは、とりちがい、思いちがい」 である。
・「うちの亭主はきょうで二十日ばかり帰らぬが、 もう帰りそうなものだ。米もなし、味噌にも困り、 いろいろきれたものだらけ」と小言のところへ亭主がかえり「 おれもとうに帰りたかったが、工面できねえ、どうだ、 うちにきれたものはないか」「米もきれた、味噌も薪(まき) もきれた」「ほかになにも、きれぬものはないか」「あい、 切れぬものは庖丁ばかりさ」
・ある男、浅草の観音さまにねがって「 なにとぞ金銀をあたえたまえ」という。 観音あわれに思いて金銀をたまわる。男、 あまりのうれしさに押しいただいて、ひたいに金銀をつければ、 こはいかに。金と銀がひたいについてはなれぬ。男、 こまっているところへ、連れの将棋好きの男がきて「どうした。 ふーん、ひたいに金と銀がくっついてとれねえ、 それなら鼻のあたまへ桂馬を打て」
・泥棒が夜中にこっそりきて、観音さまのお賽銭を盗んだ。 箱へ入れて背負って仁王門をでようとすると、 仁王が見つけてむんずとつかまえて、ねじ伏せて大きい足でふむ。 「うぬは何やつだ」泥棒はふまれたはずみに一発ブウ、仁王、 鼻をつまんで「くせえやつだ」泥棒「仁王(臭う)か」。
・たこ、あまりの暑さに橋の下へでて昼寝をしている。 それを猫が見つけて足を七本食い、一本だけ残しておく。 たこ目をさまして「足を七本食われた」 と向こうを見れば猫がいるゆえ、「あの猫が食ったか、 かたき討ちをしよう」と、一本の足をあげて猫をまねけば猫「その手は食わぬ」
・水泳ぎをしても、おぼれないおまじないがあるときいて、 ある男、おまじないを受けにいく。 もったいぶった老人が出てきて、男を裸にすると、 へそのあたりを縄でひと巻きしてしばった。「 これがおまじないですか。本当にききますかな」「うむ、 この縄をぬらさねばききめはあきらかじゃ」
・「どう思案をしてみても、ゼニのないのは仕方がない。 こういうときには神仏にすがろう」と、 毘沙門天にしきりに祈りが、ある夜、夢に毘沙門があらわれて「 なんじが願うところ、かないがたし」とのたまう。この者、 大いにおどろきて、「それは何ゆえ」と涙ながらにたずねれば、 毘沙門「はてゼニなき衆生は度しがたし」
いいなあ、いまでも使えるこのギャグ!逆に新鮮かも!オススメです!(・∀・)