お経ってよくわからないよね。いったい何が書かれているのか?どういう意味なのか?(・o・)
さて、名前は聞いたことがあるけど、果たしてどういう内容なのかわからない「法華経」これを、誰でも理解できる読みやすい現代語訳にしたのがこの本なのだ。スゴイよ〜〜!壮大な大スペクタクルなドラマだったのだ〜!そのエッセンスを紹介しましょう。
・すると釈迦如来は眉間の白毫から光をお放ちになり、東の方向にある一万八千の世界を、下は最低の無間地獄から、上は最上の有頂天(シキクキョウテン)まで、くまなく照らしだしたのです。そこにつどっていた者たちは、それぞれの世界で神々、人間、阿修羅、畜生、餓鬼、地獄の六種類の生きとし生けるものがいるのを見ました。
・霊鷲山(りょうじゅせん)は、そのかたちがちょうど鷲が翼を広げたすがたに似ているので、こう呼ばれました。ただし、けっして風光明媚なところではなく、むしろ荒漠たる岩山です。遺体を鷲に食わせる鳥葬場だったという説すらあるくらいです。そんな霊鷲山がなぜ説法の場所に選ばれたのか。一つは首都の中心には旧来の伝統がまだ根強く残っていたので、ブッダのような革新的な宗教者は入り込めなかったらしいのです。もう一つは、自分の説法には、鳥葬場のような、この世の無常を感じさせる場所がふさわしいと、ブッダが考えた可能性です。
・聴衆はたくさんいます。四衆とよばれるお坊さん・尼さん・男女の在家修行者、菩薩たち、神々、国王、龍王とその従者たちです。もちろん、マガダ国王の阿闍世王とその母もいます。ざっと合計すると、聴衆の数は数十万どころではありません。
・法華経はいま初めて説かれるのではなく、ほとんど無限の過去からずっと説かれていた、いわば永遠の真理である。ただし、その法華経を説く如来に出会えるチャンスは、かぎりなくゼロに近い。ところが、いままさにその法華経が説かれようとしている。だから心してお聞きなさいということです。
・法然や親鸞や一遍にとって、信仰の核心は、救いはもっぱら阿弥陀如来からもたらされるという「他力」でした。法華経は自分を自分の努力で救うという「自力」の信仰ですから、百八十度、考え方がちがっていたのです。
まさに、この本のタイトルどおり。へー〜そういうことだったんだ〜〜!?だよねえ。オススメです。(・∀・)