「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「法華経物語」(渡辺照宏)


たまに聞く法華経「南無妙法蓮華経の略だけど一体何が書いてあるのか?知りたいと思ったことはないだろうか?(・・)


この本は法華経の内容と深い哲理を、分かり易い文章で的確にまとめて紹介した入門書。そのエッセンスを紹介しよう。


仏陀の眉間の真ん中にある白毫相(やわらかな怪我渦を巻いている、仏陀の特徴の一つ)から一条の光線が発射され、東方に向かい一万八千の仏国土を照らし出した。そしてそれぞれの仏国土の一番低いところにある阿鼻地獄から有頂天にいたるまでの有様がそっくりそのまま映しだされた。またそれらの仏国土の六趣(天・人・阿修羅・畜生・餓鬼・地獄)にいるいきものたちも皆すべて見られた。またそれらの仏国土仏陀たちがおいでになり、説法される有様、あるいはまた出家や在家の人たちの有様、またはボサツたちの修行の有様もみな見られた。そして仏陀たちが入滅され、また入滅された後で宝石づくりの塔が建てられる有様もすべて見られた。つまり普通の物には見ることも聞くこともできない遠い世界の有様が、仏陀の神通力のおかげでその場にいる者たちが手にとるように見えたのである。


・シャーリプトラよ、完全な仏陀たちがさとっておられる仏陀の智というものは深淵で見きわめがたく理解しにくいものである。仏陀というものは百千万億の多くの仏陀たちのもとで修行し。長い間かかって仏陀の方を身につけたのであるから、仏陀以外の者たち、例えば声聞や独覚などはとうていさとることもできない。仏陀の独自の教えは知ることがむずかしい。そこで仏陀は自分がさとった法を説き示すために、さまざまの教化方法を用いて、それぞれのことに執着している生き物たちを解脱させるのである


・およそ仏陀がこの世に出現するのはただひとつの重大な目的のためである。その重大な目的とは何であるか。仏陀は生きものたちにブッダの智をさとらせるためにこの世に出現するのである。つまりすべての生きものが仏陀と同じ道に入るようにさせるために仏陀はこの世に出現するのである。仏陀の説く道というのはただ一つの仏乗のみである、それ以外に第二または第三の乗りものはあるわけがない。


われわれは過去の長い長い生死輪廻の間に、何回となく仏陀にお目にかかり、その法を聞くこともできた。その因縁によって、われわれは布施、自戒その他の修行をすることもできるし、志をたてて舎利を供養し、塔廟を建て、あるいはそこに礼拝することができる。たとえ南無仏とひとこと言うだけでも、ひとたび合掌するだけでも実は過去の深い因縁があるからであると教えられる。従って前にはわれわれとは無縁のように思われた仏道も実はわれわれの身の中に初めから生きているのでる。この点がわかれば、われわれはすでに法華経によって救われているのである。


阿弥陀仏西方極楽浄土には、女性はすべて男性に変わってから往生することになっている法華経提婆達多品においても竜女は、男身に変わって成仏する。法華経は、全体としてやはり女性はすべて男性となって成仏するという立場を守っていると思われる。女性がいないのであるから子供が生理的に生まれることはなく、すべて化生である。すなわちおのおのの自分の業によって、母体を経ずに自然に出現するのである。従ってまた、男女の営みもないから、すべての人は純潔な生活を守る。その肉体は霊的であり、自ら光明を発し、神通力を備え空中を飛行し、精進力を持ち、念力を持ち、智慧を持ち、黄金色のからだは三十二相の大人相(仏陀のごとき偉大なる人物の特色)を備えている。


・またその時には、その仏国土において、それらの生きものたちには二種類の食物があるであろう。すなわち法の喜びという食物と禅定の悦びという食物である。また無数に多くのボサツたちがいて、ボサツのすぐれた能力を備え。生きものたちをみごとに教化指導する。その仏陀のもとには、さまざまなすぐれた能力が持つ弟子(声聞)たちが数多くいるだろう。


如来如実に観察するところによれば、この三界は生まれず、死なず、死没せず、再生せず、輪廻せず、入滅せず、実でもなく、非実でもない、真でもなく、非真でもなく、如でもなく、非如でもなく、異でもなく、非異でもない。


「秘密神通力」は「加持力」と訳されるものと同じである。加持力というのは、仏陀が奇蹟を現わし、それによって衆生を済度する能力のことを言い、密教の経典には、しばしば用いられている。


「法師功徳品」では法華経を受持し、独誦し、解説し、書写する人が受ける六つの功徳を説明する。その内容は六つの感覚器官(六根)が特別にすぐれた働きを持つようになることを述べる。六根とは眼(げん)・耳(じ)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)・意(い)である。インド人一般の信仰によれば、特別の修行をした者は天眼・天耳・天鼻・天舌・天身を獲得して、普通の人の及ばないことを見たり、聞いたりすることができると言われている。まず眼によって宇宙全体のありとあらゆる山・林・河・海などをすべて見、下は阿鼻地獄から上は有頂天に至るまで、しかもその中にいるすべての生きものを見、また彼らの業の因縁と果報をすべて知ることができる。またこの舌根をもって法を説く時は、ありとあらゆる生きものは神々も魔物もみな含めてその説法を聞きたいと願う。声聞も独覚もボサツも諸仏も、国王、王子、大臣その他すべての者は皆その法を聞くことを願い、仏陀はまたこの人のいる方向に向かって法をお説きになる。


仏陀のさとりそのものを嘱累するということと、そのさとりの法を嘱累するということは必ずしも同じ意味ではない。厳密に言えば、仏陀のさとりそのものの内容はこれを体験する以外には伝える方法がないはずであろう。


特に、「三界火宅のたとえ」「医者と毒を飲んだ子どものたとえ」などの具体的な例え話が満載。実に深い、オモシロイ!他の仏教経典も知りたくなりました。オススメです。(^^)