「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「人間臨終図巻 中」(山田風太郎)

先日紹介した、「天下の奇書」の第二弾。生きる者にとって大きな関心事でありながら、“その日”が来るまで絶対的に経験不可能な事柄、「死」。古今東西の歴史に残る著名人たちの死の間隙を集めたノンフィクション、中巻には五十六歳から七十二歳で死んだ人々307名の記録を収録。そのエッセンスを紹介しよう。


・みんないう。ーいつか死ぬことはわかっている。しかし「今」死にたくないのだ。(山田風太郎


・……いろいろあったが、死んでみりゃあ、なんてこった、はじめから居なかったのとおんなじじゃないか、みなの衆。(山田風太郎


・死が生にいう。「おれはお前がわかっている。しかし、お前にはおれがわかっていない」山田風太郎


・自分の死は地球より重い。他人の死は犬の死より軽い。(山田風太郎


・生は有限の道づれ旅 死は無限のひとり旅(山田風太郎


・幸福の姿は一つだが、不幸のかたちはさまざまだ。とトルストイはいった。同じように、人は、生まれてくる姿は一つだが、死んでゆくかたちはさまざまである。(山田風太郎



◆六十歳で死んだ人々 小津安二郎(1903〜1963)


60年生きて来て、いちども長いと思ったことはなかったが、針を入れられた一週間の長さときたら、どう説明したらいいかわからないよ。そのへんに斧か何かあったら、自殺したいくらいだったよ。お医者というものは、病気の治療はするかも知れないが、痛みの治療はしないんだね。“痛いですか”“痛いですよ”“そうですか” ってんだからね。小津の墓碑銘はただ「無」の一字である。


◆六十二歳で死んだ人々 玄奘三蔵(602〜664)


5日の夜半、愛弟子が「和尚さま、和尚さまは来世はきっと弥勒菩薩のもとにお生まれになるでしょう」というと、「生まれよう」と答えた。それから呼吸がかすかになり、やがて眠るように息をひきとった。


◆六十三歳で死んだ人々 ノーベル(1833〜1896)


死の数年前、彼の兄が死んだとき新聞に死の商人、火薬王ノーベル死す」と誤報された。ノーベルはこれにショックを受け、自分の財産の利子を「人類最大の幸福に貢献した人に贈る」ノーベル賞を発起したといわれる。


◆六十七歳で死んだ人々 福沢諭吉(1834〜1901)


彼はかねがね「自分が死んだとき湯灌などするに及ばぬ。衣服もとりけるに及ばぬ。そのまま棺に納めてもらいたい」といっていたので、その通りにした。また「死顔を人に見せることはいやだ」といっていたので、その死顔を見たのは近親の者、四、五人だけであった。2月8日の麻布善福寺の葬儀には、会葬者15,000人に及んだ。
屍体は、底にキビの葉をしき、内部に銅板を張ったケヤキの棺に納められて、そのまま埋葬されたが、76年後の昭和52年発掘されたとき、屍蝋化(しろうか)していてなお生前の面影を保っていることが判明した。しかし、「死顔を見せるな」といったくらいの諭吉だからこの発掘はさぞ不本意であっただろう。


◆七十歳で死んだ人々 アンデルセン(1805〜1875)


デンマークのオランウータン」と綽名のあったくらいの醜男(ぶおとこ)で、そのくせきわめて女性的な性格の持主で、一生ついに女性から恋愛されることなく独身で終わった。実は彼は男色の大家であったといわれる。しかし、それにもかかわらず彼は、人に愛される性質と自分を幸運児だと神に感謝する性質を持っていた。「私の生涯は一篇の美しい童話である。それほど豊かで幸福なものだった」「なんと私は幸福なのだろう。なんとこの世は美しいのだろう。人生はかくも美しい。私はまるで苦しみも悲しみもない遠い国へ旅立ってゆくかのようだ」葬儀は国葬をもって行われ、王侯から乞食、老人から子供まで参列し、広大な聖母教会には弔問者の十分の一もはいれなかったという。コペンハーゲンのアシスタンス墓地の墓には、いまも花が絶えない。


そうだよねえ…人間は死亡率100%だからねえ。この本から学ぶことは多い。オススメです。(・∀・)