「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「異性」(角田光代・穂村弘)

この世の最大の、そして永遠の謎は、男にとっての女、女にとっての男だろう。(・o・)


好きだから許せる?それとも、好きだけど許せない?男と女は互いにひかれあいながら、どうしてわかりあえないのか。「恋愛カースト制度の呪縛」「主 電源オフ系男女」「錯覚と致命傷」など、カクちゃん&ほむほむが、男と女についてとことん考えてみた、話題の恋愛考察エッセイ」そのエッセンスを紹介しよう。


(角田)

・42歳の今、私はもう恋愛と無関係に暮らすことが可能である。もう新規に恋をしなくていいのだ。でも、やっぱり好きな人、というのはあらわれる。友だちとして好き、よりも、もうちょっと込み入った「好き」。


「私のこと好き?ずーっと好き?一生好き?」と訊くのは、なぜかおおむね男性ではなく女性だ。さらに、そう訊かれた男性はおおむね、「うん好き、ずーっと好き、一生好き」とは、答えない。どちらかというと、答えを渋る。これはおそれるものの違いだろうと私は思う。女性はものごとが変化変容するということを本気でおそれている。嘘でもいいから「変化しない」と言ってほしいのだ。それを言わない男性というのは、変化ではなく固定をおそれているのではないだろうか。


・断言してもいいと思う。じつに多くの女性が、生きてきたそれぞれの時間のなかで、真剣にそれを願ったことがあるはずだ。私の真価に、だれか、早く気づいて、と。この「だれか」は親ではないし、教師でもない。異性、つまりは恋愛対象となり得る「だれか」。これは女性特有の願望であるように思う。


・私は長らく、「さかのぼり嫉妬」に苦しめられてきた。十代、二十代と、私が交際する男子にはかならず「前につきあっていた彼女」がいて、その影が、彼らのまわりにちらちらちらついているのである。いつでも、だれでも。そうしてそれは「影」つまり幻であるわけで、生身のこちらは、とうていかなわない。


・私はある真理を見出した。それはアイドルやタレントの「だれそれが好き」と公言する男は、一見、好みの範囲が狭そうでいて、じつは広い。だれそれかわいい、とか、何々ちゃんとつきあいたい、などと言っている男ほど、現実の彼女の容姿に頓着しないのだ。これが女だとみごとに逆転する。奥田民生が好き、と言ったら、奥田民生的なものが現実に好きなのだ。奥田民生的容姿、奥田民生的発言、奥田民生的世界、奥田民生の音楽を聴く男性。そして反奥田民生的なものは認めない。女性のほうが現実的だとよくいわれるけれど、この点において、男性のほうがより、世界の棲み分けに対して現実的だと思う。


(穂村)


心を込めて「好き」と云うのが、こんなにこわいのは何故だろう。「好き」のひところから切り出す告白のハードルは高い。「好き」よりは「つきあって欲しい」の方がずっと云いやすいのだ。そもそも「好き」と相手に伝える前に、「僕は◯◯さんが好き」と自分自身で認識する段階がある筈だ。ところがこれがよくわからない。中学生くらいまでは「可愛いから好き」と即答できた。ところがその後、加齢とともに「好き」に対する意識が複雑かつ過剰になってしまった。その結果、◯◯さんへの感情が本当にそれに該当するかどうか、自信が持てなくなった。何故◯◯さんじゃないと駄目なのか、とか、可愛いを好きとすり替えてるんじゃないか、とか単なる性欲なんじゃないか、とかあれこれ考えてしまうのだ。


・思うに、恰好いいとかもてるとかには、主電源というかおおもとにスイッチみたいなものがあって、それが入っていない人間は、細かい努力をどんなに重ねても、どうにもならないんじゃないか。


「酒場のギター弾き」の私は、歌を作るためには、ずっと恋をしていたいなあ。男を知りたい女性、女を知りたい男性には……ということは全部の人たちにオススメです。(・∀・)!