昭和40年代、子どもの頃、ラジオでナイターを聞いていたとき、「東京球場」「東京スタジアム」という名前をよく耳にした。大人になって、はて!?見当たらない…どこにあるんだろう!?ってずっと思っていた。
この本で、そのナゾが解けた。荒川区南千住に存在し、昭和37年に作られ、47年までロッテ・オリオンズ(昭和44年までは大毎オリオンズ)の本拠地として試用された。だが、昭和50年台前半に解体されていたのだ。行動経済成長期を見届けた悲劇の球場と名物オーナー・永田雅一とはどのような人物だったのか?そのエッセンスを紹介しよう。
・私財約30億円をなげうって東京スタジアムを作り、毎日のように試合を観戦した永田雅一の口癖「映画に生まれ野球に死ぬ」。昭和の一代の風雲児と人は呼ぶ。しかし「庶民のヒーロー」という名称が適切だろう。
・「選手は自分の息子」と言って憚らなかった彼が、球団を手放すとき、選手全員の前で号泣し、別れを告げた。選手も泣いた。ある人は東京スタジアムを「悲劇の球場」と呼ぶ。たった十年少々しか公式戦が行われなかった球場である。だが永田があらん限りの情熱を持って作った球場だった。
・「永田さんは人情家なんですね。他の球団にもワンマンのオーナーはいますが、御曹司であったりしますね。永田さんは苦労して上り詰めた人だから庶民の気持ちが分かるんですよね」(戦前からの野球ファン・林秀男)
・永田は毎朝七時に起きて祈祷を始める。夜も祈祷する。両親、親類、大映の創立者菊池寛、先輩、同僚、部下の冥福を祈る。そして親しくしていた政財界の人たち。鳩山一郎(由紀夫の祖父)、河野一郎、池田勇人、鈴木茂三郎、ダグラス・マッカーサー。その対象は枚挙にいとまがない。「ロッテが優勝できたとしたら、私ひとりの力ではない。友人、故人が陰から私を見守ってくれているからだ。キミィ、故人の冥福を祈るのは当然のことなんだ」
・永田は、試合開始前に、必ずネット裏の地下に降りて、身を乗り出しスタンドの入りを見る。そしてスコアボードの先発メンバーを声を出して読み上げる。球場にいても「出かけてくる」「戻ってくる」と言うのが口癖であった。スタジアムが自分の家であったから、そう言えるのである。
・「カネがないのが貧乏じゃない、思想が貧しいのが貧乏じゃ」「恩は着るべきで、着せるべきではない」
・「東京スタジアムは僕らにとっては家なんですよ、その後、仙台や川崎球場にも行きましたが、間借りでしたから。自分の家じゃないと思った。僕は川崎球場で二千本安打を打ちましたが、その最初の一本は東京スタジアムで打ったものですからね。やはり思い出は強烈です。球場を我が家と言うことを許してもらえるなら、東京スタジアムがそうです」(有藤通世)
・「東京スタジアムは青春の思い出です。無くなるときは本当に寂しかった。跡地に碑くらいは立ててもいいですね」(山崎裕之)
その他、「安打製造機・榎本喜八とシュート打ちの名人・山内和弘」「世紀のトレード」「西田孝之の盗塁王と成田、木樽の力投」「ミスターロッテ・有藤通世入団」「日本陸上最強のスプリンター・飯島秀雄入団」「永田雅一の遺したもの」など。
いいなあ…永田さんって情熱家だったんだなあ…。タイムマシンがあったら絶対行ってみたいなあ。全ての野球ファンに贈る一冊!オススメです。(・∀・)!