「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「小野田寛郎は29年間、ルバング島で何をしていたのか」(斎藤充功)


またまたオモシロイ本に出会いました!(・o・)!スゴイ!


「第2次世界大戦終結から29年目にフィリピンのルバング島から帰還した小野田寛郎は日本軍の極秘任務を帯びた情報将校だった。陸軍中野学校の関係者が語る小野田寛郎の実像と何か。鍵となるフィリピンに隠された金塊の謎に、未公開資料をもとに鋭く迫る」そのエッセンスを紹介しよう。


・2014年(平成26)1月16日、肺炎で小野田はこの世を去った。91歳だった。小野田が発したあの言葉は、その後も私の頭から離れることはできなかった。


ルバング島のことだが、今でも誰にも話していないことがあるんだ…」


小野田はあのとき、私に何を話そうとしていたのだろうか。そして、小野田はルバング島で29年間、いったい何をやっていたのかー。


・回想によれば小野田は、1965年には日本製のトランジスタラジオを入手して、NHKの日本語放送を聴取しており、戦後の日本の社会情勢を把握していた。東京オリンピックの開催や東海道新幹線開通のニュースなども知っており、競馬ニュースまでも聞いていたという。にもかかわらず「日本の敗戦については、信じることができなかった」という小野田の発言は、ここまで述べた状況を鑑みれば、あまりにも非現実的であり、疑わざるを得ない。小野田は本当に敗戦を知らなかったのか。なぜ肉親の呼びかけにも応じなかったのか。


小野田寛郎の手記を代筆した津田信は、「一つだけ、はっきり言えることは、彼がいわゆる“英雄”でも“武人”でも“勇士”でもないことである」と書いている。巨像づくりに加担した側の人間が、はっきりと否定しているのである。


なぜ、小野田寛郎は“創られた英雄”となってしまったのか。29年もの間ルバング島の山中に潜んでいた小野田にとって、必要だったのが、“英雄”という枕詞であり、救出劇という名の“演出”だったのではないだろうか。


・小野田が「日本は戦争に敗け、終戦を迎えた」という事実を認知していたことは間違いない。にもかかわらず、日本の敗戦を認知していた彼が、ルバング島に29年間も潜伏し続けた理由は、我々が知ることのできない、“特殊な任務”を彼が背負っていたからだとしか考えられない。それは「マル福金貨」を守ることににあったのではないか。


うーん……スゴイなあ。これホントなのかなあ…。人生がひっくり返るなあ…オススメです。(・o・)