伝教大師最澄と弘法大師空海。いうまでもなく平安仏教の二大巨人である。この本は、相対する二人の生き方や思想を通じて、私たちの心のふるさとを知ろうという本。あの時代に遣唐使で、命がけで唐に渡り仏教を学んだ二人を改めて学ぼう。そのエッセンスを紹介しよう。
・私は、最澄は数ある日本の宗教家の中で、もっとも澄んだ宗教家ではないかと思うのです。最澄のことを考えるとき、私は、底しれず澄んだ深い泉のようなイメージを感じます。それにたいして空海は、空と海ー。多少汚いものは入るものは入るかもしれませんがその巨大な空と海でどんな汚いものも浄められる。そういうイメージを、私は空海に感じる。果てしない広い空々漠々たる空と海。空海はそういう無限の中から生まれてきた人間ではないかと思います。
・十九歳の少年、最澄は、どんでもないことを考えたものです。それは釈迦になることなのです。仏教というものは、もともと釈迦が開いたのですが、釈迦は、人間の世界が苦であり、苦の原因が愛欲にあることを知り、愛欲の心を断って涅槃に入った。これがもともとの仏教なのです。純粋で敏感な感受性をもった最澄は、あの腐敗した奈良の仏光に耐えきれないものを感じたにちがいない。そこに真の仏教はない。仏教とは釈迦になること、少なくとも釈迦のような心になることだ、そう思って彼は山へ入って、釈迦のような心になるまで山を下りないというのです。これはたいへんなこと、まさにもっとも愚かなもっとも狂ったことですが、この愚かで狂った純粋な行為から日本の仏教は生まれるわけです。
・密教の教義は、大日如来、金剛薩埵(さった)と一体になるということです。つまり、人間は即身成仏することができる。その身そのままで大日如来や金剛薩埵と一体になれるという理論であり、その理論が空海の自信の支えになっているのだと思います。空海自身が大日如来や金剛薩埵と一体になって真言の最高の悟りを得たという自信が、こういう態度になってあらわれているというように私は思うのです。
個人的には、最澄の方が人間くさくて好感が持てるかな。日本仏教の原点がここに。オススメです。(・∀・)