『「阿弥陀聖」「市聖(いちのひじり)」とも呼ばれた空也上人。醍醐天皇の皇子に生まれながら、父に疎まれ、帝の寵愛を失って錯乱する母に虐待され左肘が折れ曲がってしまう。行き倒れの死骸を荼毘にふしている集団に出会って衝撃を受け、身分を捨てることを決意する。天災、飢饉、疫病が襲い、盗賊が跋扈(ばっこ)する平安の世。空也は播磨国で孤独に耐えながら一切経を耽読、自らが進むべき念仏の道を見出す。諸国を巡り、平将門を弔い、春をひさぐ女に情けをかける空也が、最後に母を許したとき起きた奇跡とはー。絶海の孤島で苦行を重ね、東国で布教の旅を続け、全存在をかけて苦しむ人を救おうとする』そのエッセンスを紹介しよう。
・すべてを捨てた。捨ててきた。母との日々も、皇子との出自も、将来もすべて捨てたのだ。
・いま一度、仏法をしっかり学んでみようと思う。わたしは苦しんでいる人々を救いたいのだ。苦しみの原因はなんなのか。苦しみから逃れるすべはあるのか。苦しむ人を救えるものがあるとしたら、それはなんなのか。仏の教えにその答えはあるのか。知りたい。確かめたい。ようやっと決心がついた。
・何のために生きるのか。生きなくてはならないのか。答えがほしい。自分だけではない。人は何のために生きるのか。生きなくてはならないのか。生きることは苦しむことなのか。
・あらゆるものは、因縁によって生ずる。他に依存し、その縁によって起こることをいうので、縁起ともいうが、あらゆる存在やものごとは、それ自身から、また他者から、また自身と他者の双方から、また因無くして生じたものとして、存在することはない。いかなる時にも、いかなる場所にも存在しない。それが空というものなのだよ。
・井戸を掘る。自分の研学より切羽詰まった人々を助ける方が先決だ。かの弘法大師も溜池を築いて日照りに苦しむ民を掬った。民にとって観念的な説法は助けになりませぬ。会津でも京でも涙を流してありがられたのは、生きのびるための技術を教えることでした。一人ではとうていやれることも、皆が力を合わせればできる。
「大地震、洪水、疫病、飢饉、怪しげな性神、荒れる人々の心を救う道を模索し続けてきた40年」 空也上人の口から「南無阿弥陀仏」というお六字が出ている像は、いつ見てもスゴイねえ。超オススメです。(・∀・)