「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「ディズニーの隣の風景 オンステージ化する日本」(円堂都司昭)

さあ、GWが始まりました。きっと東京ディズニーランドにも多くのゲストが訪れているんだろうねえ。(・∀・)

さて、数々のディズニー本はあれど、この本は変わっているよ〜ミッキーマウスの写真もディズニーランドの写真も一枚も出てこないのだ!テーマパーク、B-1グランプリ、ご当地アイドル、YOSAKOI聖地巡礼、街コン……。私たちが「オンステージ化」する理由とは?そのエッセンスを紹介しよう。


・全体のテーマは、「オンステージ化する街」だ。まずは、日本での開業三十周年を迎えるディズニーランドがどのようにして浦安に出現したのか、経緯をなどり直すことから始めよう。


・大正時代、東京市(当時)のし尿処理能力の不測の顕在化に対し、人糞を乾燥させ肥料化する工場を東京に近い浦安町(当時)に建設する計画が、1929年に持ち上がった。だが、海苔、アサリ、ハマグリ、ハゼ、スズキを主産業にしてきた浦安は、工場廃液が海に悪影響を及ぼすとして反対運動を展開した。そして、各所に陳情後、建設用地を浦安町が買い取ることで落着したのだ。また、39年には、浦安町内の養魚池を東京市が買い取って巨大な肥溜にする計画が浮上するが、浦安の漁師たちが、計画推進のためにやってきた東京市のトラックを川に投げ込む騒ぎを起こし、やはり中止に追い込んだ。さらに高度成長期には、ゴミ増加も東京の大問題となり、またもや反対運動が激化し、計画は頓挫した。このように、東京のゴミ捨て場とされることに何度も抵抗してきた浦安の漁民たちだったらが、結局、製紙工場の廃液が彼等から海を奪うことになる。58年の黒い水事件である。本州製紙(現王子製紙)江戸川工場の廃液が浦安の漁場に流れ込み、魚介類に多大な自害を与えたのだ。


これがきっかけに、国は水質保全法、工場排水規制法を立法化し、我が国初の公害対策法となった。しかし、漁獲量の減少は止まらず、浦安は脱漁業の道を探るしかなくなる。この頃、オリエンタルランド三井不動産京成電鉄の共同出資会社)から、浦安沖を埋め立てて大規模レジャーランドを建設する案が持ち込まれる。そして62年には漁業権の一部が放棄されて65年から第一期埋立工事が始まり、レジャーランド建設案は、やがてディズニーランド招致へと結実したのだった。


・浦安は東京に近いわりに長らく鉄道がなく陸の孤島状態だったが、69年にようやく営団地下鉄(現東京メトロ東西線浦安駅が開業した。これにより都内に勤め始めた元漁師と、漁業権放棄の補償金を宴会や博打で使い果たしたものとで格差が生まれた。元漁師には、都の清掃作業員になったものも多かったという。81年、浦安は町から市となり、2年後に東京ディズニーランドが開業した。以前の浦安は、東京のゴミの捨場として狙われた。だが、時代は移り、都の人口が増大し生活水準も上がったおかげで、彼等が余暇を楽しむ場として近隣の浦安が再発見された。


・浦安へのディズニー誘致が決定する以前に、オリエンタルランドは独自のマスタープランオリエンタルランド(レジャー施設)基本計画」をまとめ、74年に千葉県の承認を受けていた。「すばらしい人間とその世界」をテーマにした東洋一のレジャーランドを建設する計画であり、膨大な埋立地に遊園地、ファッションスクエア、ホテル、マリーナ、各種スポーツ施設などを配置することとしていた。この時点では、ミッキーマウスなどのディズニーキャラクターを中心にした「夢と魔法の国」というテーマや演出の発想がなかったため、それまでレジャーと考えられていた要素を単純に足し算した内容になっていた。


・日本にディズニーランドを誘致するにあたっては、当初、静岡県富士スピードウェイ周辺の用地を提案した三菱地所ブループと浦安の埋立地を推した三井不動産グループが競合した。米国ディズニーの首脳は、東京都という大消費地に隣接しているほうが集客力を見込めるなどの理由から浦安を選択したが、決定の要因に冨士山が関係していた。もしも静岡に立地していたならば、日本のシンボルとして知られる冨士山がパーク内から間近に見えることになる、それはアメリカ的な雰囲気を満喫させようとするディズニーランドのコンセプトにふさわしくない。だから、浦安が有利だったというのだ。


今の時代を読むキーワードが分かる本。オススメです。(・∀・)