一日一冊一感動!小野塚テルの『感動の仕入れ!』日記

タイトルは、『一日一冊一感動!小野塚テルの感動の仕入れ!』日記。 毎日の読書、映画、グルメ、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。(ときどき「酒場のギター弾き」「B級グルメ」も紹介します)

BOOK〜『野球にときめいて 王貞治、半生を語る』

野球にときめいて―王貞治、半生を語る

野球にときめいて―王貞治、半生を語る

私が大尊敬する、福岡ソフトバンクホークスの球団取締役会長の王貞治氏。世界の王さん。ここでも何度か紹介しました。


COLUMN〜『王貞治が初めて語った「国籍」「長嶋茂雄」』(松下茂典
http://d.hatena.ne.jp/lp6ac4/20110727


この本は読売新聞の連載された「時代の証言者 ホームラン王 王貞治に加筆して再構成したもの。オドロキだったのが、40歳で引退したのは間違いだったと自ら認めていることだ。だってそうだよね。その年でも30本の本塁打を打っているのだから。そのエッセンスを紹介しよう。



・僕は二卵性双生児で、それも仮死状態で生まれてきました。「貞治」という名は、母が産院で読んだ本の作者の名からもらったようです。一緒に生まれた姉の広子は一歳三カ月で急死しました。姉が亡くなると母のお乳を独占できたからか、僕はみるみる元気になりました。母はよく涙ぐみながら言っておりました。「広子は貞治の体のあるい所を持って行ってくれた。あんたはお姉ちゃんに感謝しなくてはいけない、お姉ちゃんの分まで生きなくてはいけないよ」と。だから僕は幼いころから、僕には二人分の力があるんだ、姉と一緒の二人力だと思っていました。僕の人生ではいつも不思議な力が働くんです。その最初となる出来ごとが、姉の広子の死でした。


・思えば、僕には不満を抱きながら生きたという経験がありません。悲しかったり苦しかったり、つらかったりしたことはたくさんあるのですが、不満だったことはないのです。それも「野球の神様」のおかげなのでしょうね、きっと。


・当時は今と違って、左利きが極端に嫌われていました。だから両親からは、箸を持つのも鉛筆を持つのも右手でと厳しくしつけられました。勉強しろとか宿題をしろなどとは、一度もいわれなかったのにね、。野球も投げるのは左なのですが、打つのは右でした。それが後年になって大きな意味をもってくることになります。


・中国人だった父はひたすら実直に働いた。言葉も不自由ですし、学問もない。小学校にも行っていません。頑丈な体だけを頼りに必死に生きていた。日本で働かせてもらう。日本の人に受け入れてもらう、それが何より大切だと考えていた。父にとって、それは日本で生きる唯一の方法でもあったのでしょう。母は「父さんから『日本人を見返してやる』などという言葉は一度も聴いたことがない」と言っていました。


父は僕ら子どもたちに、人に迷惑をかけてはいけない。人のお役に立ちなさいといつも言っていた。自分ができることだったら、その人の頼みを聞いてあげなさいと。後年、僕が巨人に入団した時も、父は報道陣の皆さんに「貞治はお役に立てますでしょうか」と尋ねたくらいです。子ども心にも、僕は「人の役に立たなくてはいけないんだ」と思いながら育ちました。


・結局、一家で中国に帰るという父の夢は、僕がプロ野球の道へ進んだことで消えてしまいました。日本に永住せざるを得ないと決めると、父は七年間にわたり、毎年中国に渡った。故郷の村に発電機を寄付したり、小さな川に石の橋をかけたりしたそうです。父なりに故郷のためにと考えたのでしょう。まじめで勤勉で優しい人だった。たばこも吸わないし、お酒もちょっと飲んだだけで酔ってしまう。僕は感謝していますよ。両親から「人にありがとうと思いながら行きなさい」ということを、毎日のように教えられて育った。中国から来た父は、日本国籍を取らずに亡くなり、兄の鉄城も、中国籍のまま世を去りました。日本への帰化を何度も勧められましたが、僕は中国籍で生きてきました。不自由さを感じなかったせいもありますが、父の思いのためでもあるのです


・巨人のユニフォームを着た荒川博コーチは、多摩川グラウンドで僕の打撃フォームを見るなり、吐き捨てるように「ひでえもんだ」とまず一言。次いで「野球のボールじゃあ無理だな。ドッジボールで投げなきゃ打てんな」。とどめが「遊びは上手になったらしいが、野球は下手になったな」です。荒川さんとの再会の初日は、この三つの言葉だけで終わってしまいました。神奈川県丸子橋の巨人軍合宿所に入ったのですが、寮長の武宮敏明さんによると、巨人軍史上の三大悪童は、堀内(恒夫)と柴田(勲)とそれに王だと言っていました。にらまれていたんです。


・荒川さんにグラウンドで言われました。「やる気があるなら、三年間は俺の言うことを黙って聞け」。夜遊びはやめろ、酒もやめろ、と。「理屈はともかく、やめるということが大切なんだ」それで僕はその気になった。荒川道場の始まりです。


・僕は本塁打を打とうと思って一本足を始めたわけじゃない。悩んで悩んで、もうどうにもならないという時に、ならば駄目もとでやってみようかということで始めた。最初はまぐれあたりみたいなものでした。僕の場合、本塁打を打つ力は以前からあったんです。それが荒川さんとの猛練習のおかげで、バットを振る筋力がすごく強くなった。自分でも驚くぐらい玉が飛ぶようになっていたんです。


・僕は不器用な人間です。「打てなくなったらどうしよう」という不安は練習で克服するしかないと考えました。スランプは選手の宿命です。その対処法は人によって違う。あえて休養をとるということも一つの方法でしょう。ですが、僕は休むのが怖かった。休む勇気がなかったんです。僕は技術とフォームをしっかりさせておかないと打てない。形ができていないと駄目なのです、しっかりしたフォームを身に付け、それを保つには練習するしかなかったのです。


ハンク・アーロンは、僕の「一本足打法」のフォームを「力強いだけではない。美しい」とほめてくれました。実を言うと、僕自身も当時のフォームを写真などで見ると、ああ、きれいだなあと思うのです。

・打者は、「10本に3本打てばいい」と思うようでは駄目なんです。毎回毎回、目をつり上げて打つ。打てなければ、なぜ打てなかったのかと考えるようでないと、10本に3本は打てない


・僕は40歳の時に「年齢的な限界」を理由に1980年(昭和55年)に引退を表明したのです。しかし僕は今、年齢のせいにして辞めたのは間違いだったと素直に認めたい、今も悔いが残っているのです。できるなら自分の人生を書き変えたいくらいにね。本来の自分だったら、あと三年はやれたでしょう。単なる不調を、40歳という年齢のせいだと責任転嫁してしまったのです。今思えば技術的にずれていたんですよね。打撃の技術チェックを厳しくやっていれば山はまだまだ乗り越えられたはずです。体力的には43歳まで、あと三年は絶対にやれるという自信がありました


すごいなあ。王さんは。心から尊敬する。私の中の永遠のヒーローです。おススメです。(^^♪