「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

BOOK〜不正出のスーパースターの自叙伝!…『男道』(清原和博)

男道 (幻冬舎文庫)

男道 (幻冬舎文庫)

またまた野球本。(^u^) ごめんね…野球好きで…。ウチのトレーナーの橋本から薦められて読みました、この本。…感動!…泣けた…。(T_T) あの清原和博にこんなドラマがあったなんて…。


「僕はあの時、桑田を憎んでいた。そして僕に桑田を憎ませることになった王監督を憎んだ」。運命のドラフト会議、野茂・伊良部らとの男の戦い、巨人軍との愛憎、前例のない大手術と地獄のリハビリなど、知られざるエピソードで描く、涙なくして読めない赤裸々な自叙伝。そのエッセンスを紹介しよう。


仰木彬さんの言葉を思い出すと、今も胸が熱くなる。

「お前、オリックス・バファローズに来てくれんか?キヨ、お前の悔しさはわかってる。巨人に対する気持ちも、ようわかる。だけど、お前はそんな風にして自分の野球人生に幕を引いたら駄目だ。お前は大阪で育った人間や。大阪に育てられた人間は、最後は大阪に恩返しをしないといけない。大阪へ帰ってこい。お前の最後の花道はわしがつくってやる。 


ジャイアンツに負けて、尻尾を丸めて逃げ出すんやない。お前なら、今の大阪を元気にできる。お前が自分の野球人生をまっとうするために、最後の力を振り絞って戦っている姿を見せたら、大阪だけやない、関西の人間はみんな元気になる。生まれ故郷の関西に恩返しするために、大阪へ帰ってこい。ウチがどうしても嫌というなら、阪神でもいいんや」「でも、なんで僕なんですか」 「お前の男気に惚れたんや」


僕はいつも自分の気持ちに正直に生きてきた。自分の気持ちを曲げたことは一度もない。目の前にどんな障害物があろうと、真っ直ぐに歩いてきた。何度も顔や頭をぶつけたけれど、横に回ったり。後戻りしたりするくらいなら、怪我したほうがましやと思って生きてきた。子供っぽいと言われようとも、それが自分の生き方だった。


・(4年契約を3年で打ち切ろうとする巨人に対して球団事務所に押しかけたことの謝罪会見に臨んで)
悔しかった。悔しくて悔しくて、この悔しさを自分のカラダに刻みつけておきたかった。どんな悔しさも、人はいつか忘れてしまう。その忘れることさえ、悔しくてたまらなかったのだ。だから自分のカラダに傷をつけて、入れ墨でも入れて、いつもそれを見るたびに悔しさを思い出したかった。だけど、その話を母にしたら、泣かれた。それで、入れ墨のかわりに、耳に穴をあけてピアスにをした。みんな唖然としていたから、「バリー・ボンズにあやかって」なんて冗談を言ったが、本当はあのダイヤのピアスは僕の悔しさの結晶だった


・小学校の5年生の時、元大洋ホエールズの及川宣士(のぶじ)さんからピッチングのコーチを受けるようになり徹底的に下半身を鍛えられた。放課後の練習時間の大半が、そもそもランニングやダッシュで占められているというのに、それとはまた別に毎朝10キロのランニングを命じられうんざりするほど走らされた。(PL時代は20キロ)柔軟で強靭な下半身がなければ、どんなに技術を身につけたところで、ピッチャーとしてもバッターとしても大成しないというのが及川さんの持論だった。練習が終わると、及川さんは僕の筋肉をマッサージしながら、技術よりもむしろ野球選手としての心構えを話してくれた。


・人に与えられた時間は、一日24時間しかない。それは誰だって同じなわけで、24時間でどれだけ自分を成長させられるかが勝負なのだ。ならば、自分は一日24時間のすべてを野球に打ち込めばいいと思った。そして、寝ても覚めても野球のことだ野球のことだけを考えるようになった。僕以上に野球に打ち込んでいる人間はいない。だから僕は、誰にも負けない。そう信じることができたのだ。


・当時のPL学園硬式野球部は部員全員が寮生活をすることになっていた。正月休み以外は家に帰れないのはもちろん、両親に電話することも、手紙のやりとりまでもが禁じられている。自分で望んだこととはいえ、言葉は悪いが監獄にでも入るような気持ちだった。PL学園の寮に入ったあの日が、僕の元服だった。親離れをしただけではない。僕は、生涯のライバル・桑田真澄と出会ったのだ。


桑田のピッチングを見た瞬間に、甘い幻想は消し飛んだ。こいつには勝てない。ひと目で、そう思った。こんな経験は初めてだった。その立ち姿、腕を鞭のようにしならせて投げるフォーム、そして指を離れたボールの描く軌跡。桑田の投げる球には、球速とか球威というものとはまた別の何かがあった。まるでボールに命が宿っているように見えた。野球選手には勝負勘というものがある。バッターボックスに立って最初の一球を見ただけで、これはヤバイと思うことがある。理屈ではなく、その一瞬で相手の力量を見切ってしまうのだ。野生の動物は、面と向かっただけで、相手が自分より強いかどうかがわかるという。桑田の投げるボールを初めてみたときが、まさにそんな感じだった。こいつこそがピッチャーだと思った。野球選手として桑田のレベルに追いつくには、自分はピッチャーを諦め、バッティングに専念する以外にないと思ったのだ。それほどの衝撃だった。


桑田に課せられた練習メニューは鬼のようだった。炎天下のグラウンドで200球も300球もピッチングをする間、キャッチャーは構えたミットの位置を動かさない。コントロールが狂えば、後方へ転々と転がっていく。そのボールは桑田自身が拾う。すべての体力を絞り尽くして、それでもふらふらになりながら投げ、よたよたと走っていた。本気で桑田が死んでしまうんじゃないかと思ったことが何度もあった。しかも桑田は練習が終わったあとに、ひとりで、グラウンドを走り込んでいた。桑田は人の5倍練習するといわれた。負けられないと思った。桑田が走っている間は僕もバットを振り続けた。あれほど練習に夢中になれたのは、やはり桑田がいたからだった。


誰も見たことのないような大きな、美しいホームランを打つこと。それが僕の野球選手としてのアイデンティティだった。目にもとまらぬバットの一振りで、スタンド上空に舞い上がる打球。僕の試合を観るために球場に足を運ぶお客さんは、そのホームランを期待しているのだ。僕はいつもより遠くへ、より大きなホームランを打つための努力をしてきた。飛距離は年々伸び続けた。ジャイアンツに移籍してからも伸びていた。その飛距離をさらに伸ばすために、肉体改造を始めたのだ。


・桑田が引退を発表したのは、2008年3月26日だった。僕は翌朝のニュースで知った。突然の引退だった。体中から力が抜けた。心に穴が空いた。本当に何もする気がなくなって、欠かさず続けていたリハビリと練習に3日間も行けなかった。そんなことは初めてだった。桑田という存在が自分にとってそれほど大きかったんだということに、僕は長い間気づいていなかった。引退発表する桑田の顔が、また爽やかで胸に応えた。ああ、こいつは本当にやり遂げたんだなと思った。


・10月1日が、僕の現役最後の試合だった。その日まで、ついに思い描いたホームランを打つことはできなかった。相手は王監督率いるソフトバンクだった。最後の試合のためにたくさんの仲間や恩師が足を運んでくれていた。イチローアメリカから。そして桑田が来てくれていた。
僕と桑田と王監督が、この場に揃っていた。23年前のあの人はまた違う形で。3人ともジャイアンツとは別のユニフォームを着ていた。そして3人とも、そのユニフォームを2008年という同じ年に脱ぐことになった。試合が始まる前に、その王監督から花束を授与されることになっていた。「生まれ変わったら、必ず同じチームでホームラン競争しような」王さんは高校時代の僕の気持ちを知っていたのだ。王監督もこの23年間、僕と同じ十字架を背負ってくれていたのだと思った。


すごいなあ…。清原って。こんなに夢中になれる野球って素晴らしいよね。指導者として球界に戻ってきてほしいね。(^u^)