「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「中西太、優しき怪童 西鉄ライオンズ最強打者の真実」(井口英規)

もう西鉄ライオンズとその主軸打者ほ中西太のことは何十冊も読み、読み尽くした、知り尽くしたと思っていた。が!!!中西が亡くなったあとに出たこの本には、なんと!西鉄ライオンズ三原脩監督と中西太のDNAがなんと!WBCの栗山監督につながっているという仰天の内容が書かれているのだ!!!なんと!!!ビックリ!!!(・o・)!!!!こりゃ読むしかないっ!!!
 
「積み重ねた取材とベースボール・マガジン社だからこその貴重な資料、 そして新たなる証言者たちの言葉からよみがえる 怪童と呼ばれた男の知られざる素顔。 [証言者] 吉田義男米田哲也権藤博王貞治、辻恭彦、若松勉真弓明信新井宏昌、香坂英典、栗山英樹大久保博元田口壮岩村明憲、中西家」そのエッセンスを紹介しよう。
 
・高校時代からの異名が「怪童」だった。昔話の金太郎のように、人並み外れた怪力の子どもをさす言葉である。のちに中西はいつまでも怪童はないやろ」と笑っていたが、中西の生涯の代名詞となり、今後も語り継がれるはずだ。豪快でこわもての風貌ながら、どこか愛嬌ある言動と、何よりその破格の逸話ゆえの異名である。
 
内野手がジャンプし、外野手が慌てて前進するほど低いライナーが、ぐんぐん伸びて場外に消えた」
 
強烈なライナーを捕れずに体に当ててケガをした内野手がショックで引退した」
 
「ファウルチップを打つとボールから焦げた臭いがした」
 
最初の2つは紛れもない事実だが、3つめについては、「そう言う人もおったが、わしは分からん。牛のあばら骨でバットをしごいていたから、染み込んだ脂とスイングの摩擦でそんな臭いがしたんやないか」
 
・義父であり西鉄時代からの恩師である名将・三原脩督は、1983年刊の著書『風雲の軌跡』でこう書いている。
 
「打球スピードについては、ひいき目ではなく、中西の前に中西なく中西のあとに中西なし、と言ってもいい」
 
いろいろな方に話を聞き、関連する過去の記事も読んだが、タイミングもあって、権藤博の中西評は腑に落ちた。プロ野球草創期から1984年に亡くなるまで、日本球界の発展をつぶさに見続けてきた偉人の言葉は重い。
 
権藤博、1961年、中日ドラゴンズ入団。全盛期は短かったが、新人年から35勝を挙げ、2年目も30勝。連投に次ぐ連投で権藤、権藤、雨、権藤と言われた鉄腕だ。西鉄の本拠地・ 福岡県の隣、佐賀県出身で、プロ入り前、平和台球場西鉄の試合を見たこともある。権藤は中西さんはWBCのときの大谷翔平なんですよ」と言った。
 
・記録を見ると、1952年のルーキーイヤーから1958年までの7年間で獲得した打撃3部門のタイトル(首位打者本塁打王打点王)は10。入団7年で比較すると、一本足打法の習得が入団4年目途中ではあったが、世界のホームラン王と言われた王が7、大卒の長嶋茂雄 (巨人) ですら8である。
 
うちホームラン王は4年連続を含む5度。2冠は4度で、そのすべてが残り1部門は僅差の2位と、三冠王まであとわずかに迫った。当時、戦前の巨人・中島治康以外に三冠王はおらず、もっと言えば、中島の三冠王は1年トータルではなく、1938年秋のもので (春秋の2シーズン制)、達成当時は特に話題にはならなかった。

・この7年間は、その前の飛び過ぎたボール、「ラビットボール」(うさぎのように飛び跳ねる意)の反動もあってか、日本球界でもっともボールが飛ばなかった時代と重なる。20本塁打台での本塁打王も多く、最多が1953年、中西の35本で、セ・リーグでの30本以上は1954年の洋松ロビンス(現横浜DeNAベイスターズ)の青田昇1955年の国鉄スワローズ(現ヤクルト)の町田行彦の3本。パ・リーグでも中西以外の30本塁打以上は1957年、南海・野村克也の30本だけだ(中西は3回。ちなみに30本の1953年のパ・リーグは120試合制だった)
 
中西にホームランへのこだわりはなかった。ライナーでセンターの左右を抜いていくアベレージヒッターのつもりで打ち続けていた」
 
・中西はプロ入りから25歳までの7年間で190本塁打988安打をマークした。1960年代からの球界全体の急激な本塁打増と18年間という選手生活を考えれば、500本塁打2000安打ははるかに超えていても不思議ではないが、実際には244 本塁打、1262安打に終わっている。最大の理由は左手首の故障だ。1959年に右足の大ケガをし、再起を懸けた1960 年の開幕前に、引退まで苦しめられる左手首の故障を負った。
 
1959年以降は一度も規定打席到達はなく、引退。わしの選手人生は実働7年。あとはおまけやね」とよく言っていた。果たして左手首の故障がなければ、どれほどの成績を残していたのか。
 
・中西は8人きょうだいの7番目。太(ふとし)という珍しい名前は、父親の宇八さんが出入りしていた荷馬車業者の親方が、己の才覚のみで天下人に上り詰めた「太閤(豊臣)秀吉」からつけてくれたものだ。豪快な中西にぴったりの名前とも思えるが、「子どものころは太という名前が恥ずかしくてね、そんな名前、周りにいないもんな。太閤さんのようになれとつけたのだからと自分を慰めていた」とプロ入り後の取材で語っている。
 
・「育てるというのは、要は長所を伸ばすこと。だから心が萎縮するとダメなんだ。三原さんは叱り方、声の掛け方もうまかった。よく、いくらたたいてもあいつは平気とか言うけど、そんなに簡単に分からんよ。三原さんはそれを見抜く眼力が絶妙やった。一人でうまくなったように思わせることもできたしな。ミーティングで若い選手に注文を出すときも、必ず名前を挙げてプレーを褒めて、いい気分にさせてからするようにしていたからね。
 
ただ、甘やかすわけやないよ。厳しい人だったし、セオリーを守らなければ怒った。練習も基本を徹底的にさせたしな。そんな細かいことは言わないんだけれど、しつけがきちしつけって漢字で身を美しくと書くよね(躾)。それは厳しかったし、自分にも厳しかった」三原西鉄は練習内容もすべてが効率的で、球界の最先端にあった。
 
・三原さんの言葉で何苦楚(なにくそ)というのがあった」何苦楚――。苦しさがのちの礎になるという意味だ。ほか「日々新たなり」「花は咲きどき咲かせどき」「人を見て法を説け」など、三原監督の言葉であり、中西の血肉となったものは多い。
 
もともと練習の虫だった中西だが、そこからさらに激しい練習を重ね、毎日バットを振って振って振りまくった。 「わしが大男と思っている人もいるようだが、身長は174センチ、今の球界ならチビなほうや。ケツはどっしりしていたけどな。それが努力して努力して強い球を打ち返す技術を学んだ。要は、ボールを引きつけて内転筋を使って腰を鋭く回す。徹底的にバットを振ったよ。合宿所の庭で葉っぱをボールに見立てて目標にし、確認しながら振った。あらためて思ったのは、バッティングは腕の力じゃないということや。下半身から力を伝えていかなきゃいかん。重心の送りと軸足の蹴り。引きつけて引きつけてガッと振る。下半身も崩れてはいかんから、しっかり踏ん張る。そのうち手のひらじゃなく、足裏にマメができてくる。もう死に物狂いやね」
 
外角球に目付けをし、引きつけて右中間に強く打ち返すイメージだった。インコースを意識すると、どうしても体の開きが早くなるからだ。そのタイミングだとインコースが詰まってしまうように思うが、腰を鋭く回転させて押し込めば、余力で飛んでいくんだ」とも言っていた。
 
・中西は三原監督から「若松(勉)みたいに体が小さい選手をどうしてあんなに教えるんだ」と言われ、徹底的についてくるので教えないわけにはいきません」と答えた。若松は、それをあとで人づてに聞き、それだけ必死に食らいつきましたからね」と振り返っている。
 
・だいたいプロに来るような人間は、みんな素晴らしい力がある。それなのに欠点を指摘しても仕方がない。萎縮するだけさ。バッティングもピッチングも最初からできる人はいないんだから。大事なのは、いかに長所を生かすか 。そのためには眼力が必要なんや 」これも三原の教え、「人を見て法を説け」である。
 
・自分の考えを押しつけてもダメ。コーチは手伝うだけでいいんだよ。 一緒に汗を流して泥まみれになってやらんと選手は育たんだから、やれとは絶対に言わんことだね。やってみるかでいいんだ。無理押しは絶対にしない。共同作業なんだからね。
 
わしは体は使ったが、能書きは言わん。目いっぱいの情熱をぶつけるだけや。それで選手の邪魔をしない。言葉で分かるならコーチなんておらんでええでしょ。一緒に苦労し、 気づくのを待つ。それだけや」この言葉を聞き、こう思う人もいるかもしれない。「それは理想論です」と。しかし、中西は言葉だけではなく、そのときも、それからも実践し続けた。ずっと変わらずに。
 
若松勉「中西さんと出会わなければ今の自分はありません。若松は「中西さんが選手に怒ったのは見たことがないです」と言う。「試合でライナー性の当たりがアウトになっても今のはいい打ち方でアウトになっているのだからヒットだと思え』と言ってくれ、フリーバッティングでは、いつもいい打ち方をしているぞ』ばかり。乗せ上手、褒め上手ですね。否定するような言い方をするのを聞いたことがなかったです」若松とは遠征の移動の間も、ずっとバッティングについて話し合った。
 
・「彼は酒が好きなんで、夜行列車で帰るとき、小さいサントリーオールドを、ちびちびと飲みながら話したりね。シーズンに入っても夜は、毎日のようにスイングだった。本当によかった。若松君が成功したことで、わしの人生も変わった。コーチは天職、そう思うになった」若松も同じだ。逆に言えば、若松に出会わなかったらどうなったのか。いくら素晴らしい指導をしても、選手が必死でついてきてくれ、かつ結果を出してくれなければ、プロの世界は評価されない。それを中西は最初のコーチ時代に手にした。
 
・人生にはいいほうでも悪いほうでも、さまざまな「たられば」がある。若松に「中西イズムは、今のヤクルトに残っていますか」と聞いた。「もちろん、あると思います。技術的には、やはり下半身を使ったスイングですね。インパクトでも上体だけじゃなく、下半身を使ってたたくイメージです。今のチームで言えば、杉村(繁)が打撃コーチでいます。彼も中西さんの教えを受けたし、僕の教え方もずっと隣で見ていました。彼の指導で、山田(哲人)がトリプル3を3回もするような大打者になりましたしね」
 
・ある意味、中西イズムの原点であり、拠点となっているのがヤクルトにとってと言うより日本の野球界にとって大きかったと思」と中西が言う、1971年5月に完成した神宮の室内練習場だ。当時、本拠地球場近くに、これほど大きなインドア練習場がある球団はなかった。尽力したのは三原監督だ。
 
「神宮は国の土地だったから簡単じゃない。政治家で、のち首相の大平正芳さん、社会党委員長の成田知巳さん、あとは神宮の場長をやられた伊丹安広さんと当時の『えらもん』を三原さんが集めて実現したものだ。みんな香川の出だしな。
 
・わしもそうだよ。あそこで、ずいぶん球を投げたり、トスを上げた。打球が体に当たったことも何度もある。いろいろなやり方を考え、勉強した。細いバットを振らせて、シャープなスイングを覚え込ませたりね。不自由なところで、考えて工夫する。あれで私も指導の方向性、人を育てる方向性ができた。あの時代があって、どの球団に行ってもできるようになったと思っている」
 
1984年、ドラフト外で入団してきた選手との出会いもあった。キャンプでほかの誰よりも中西の言葉を熱心に聞き、練習では必死に食らいついてきた無名の新人、のちの日本ハムそして第5回WBC日本代表監督となる栗山英樹である。「僕はテスト生で入った人間ですが、ドラフト1位で入った選手と同じように接してくれました。プロの世界では、これが難しいことなんです。中西さんは僕みたいなダメな人間にも愛情を注いでくれ、すべての選手をなんとかしようとしてくれた指導者です」先入観なく、その選手と向き合えるということだろう。
 
・「わしのオヤジの三原監督からもらった言葉なんや。ええか、今やってることは何苦楚じや。今これだけやっとったら必ず花開く。今は我慢してやっておけと言っていただきました。それからはヘルメットを変えるたびに書いてもらうようになりました。
 
最初からすごくすっと入ってきたのは、僕自身が常になにくそと思いながらやっていたこともあります。バッティングって10回やって7回は失敗するじゃないですか。7回の失敗のとき、僕は常にくそって思っていました。打席に入れば10割でいきたいというのが、 バッターは誰にでもありますからね。それを漢字にされたときの何事も苦しむことが礎となるという話と、なにくそと歯を食いしばるその2つの意味があるなと思いました」
 
岩村明憲)はさらに何苦楚に魂をつけ、何苦楚魂と言っていた。「中西さんには、お前が勝手に魂つけやがるから、ファンの人から何苦楚魂と書いてくださいと言われるんや、と言ってはいましたが、顔は笑ってました。まんざらでもなかったみたいですよ。何苦楚を広げたのがうれしかったんだと思います」
 
・2013年、 77歳のときの言葉「野球やっていて、ほんといろんなことがあった。でもな、わしはなんの後悔もないよ野球を通した財産がたくさんあるからね。人のつながり、家族もそうじゃ。選手のときのライバルが指導者時代の仲間になったり、不思議な巡り合わせもたくさんあった。ほんと幸せな男だと思うよ。現役の選手や監督、コーチに教え子がたくさんおって、時々、教えに来てくれとこんなじいさんに声を掛けてくれる。わしの教え子が、わしの教えたなかから一つでもいいと思ったことを継承してくれたらいい。それで若い選手をしっかり育ててほしいと思ってる。長生きすると、いろんな人に出会うし、いろんなつながりができる。いま思うのは、本当に野球一筋、野球バカで一生を終えることができてよかったということや。チームメートもそうだし、コーチとして、監督として、いろんな球団のいろいろな選手と出会った。 全部財産や。監督としてはへぼでたくさん失敗もしたけど、監督を助け、選手を育ててということでは、やれたと思うよ。幸せな男や。
 
・評価は自分でするもんやない。わしみたいに棺桶に足を突っ込んだじじいに、誰かが、そういえば、あのとき、こんなことを言われたな。あの言葉はありがたかったなと思い出してくれたらそれで十分や自分で自分を褒めたたえる人も多いが、そんなの意味はないよ。野球は奥深い。わしは今もダルビッシュ(有。当時テキサス・レンジャース。現サンディエゴ・パドレス)と対決している夢を見るからな。あんなでかくて、球種もたくさんある投手をどうやって打とうかって悩むんや。起きたあとはコーチとして、どうやって打ち崩せるように教えようかって考える。きりがないな」2023年のWBCでも、大谷翔平を応援しながら、きっとどこかで、自分ならどう打ち崩そうか考えていたと思う。怪童対二刀流。想像するだけで、胸が躍る。
 
・その場で「これを読んでみなさい」と見せてくれたのが三原ノート」だった。頼んで 1日だけ借り、全ページのコピーを取ったという。「本当に素晴らしいものです。今の時代の野球の考え方というならまだ分かるんですが、 昭和30年代、情報がさほどなかった時代に、ここまで考えられたというのは、どのくらい大変だったか。想像を絶します。しかも、まったく古くない」中西は目を細め、言う。
 
「三原ノートは栗山君以外の人にも貸しているけど、そこに自分自身の経験が出てこなければ、やっぱりダメ。言うなれば、あれは奥深いところに導いてくれる辞書のようなものだからね。野球はこうあるべき、配球はこうあるべきと偉そうに話す人はいっぱいいるけど、それを分かりやすくかみ砕いて選手たちに伝えてあげないとただの自己満足。栗山君は、それがしっかりできている」三原ノートを通じ、栗山には中西だけでなく、三原との師弟関係も生まれたと言っていいだろう。面白いのは栗山が日本ハム監督となったことだ。1974年創設時の初代球団社長の三原、初代監督の中西とつながったのだから。
 
栗山は監督就任以来、毎年、三原の墓参りをし、監督室には三原の写真と中西からもらった三原直筆の「日々新たなり」と書かれた布を額縁に入れて飾っていた。「リーグ優勝をしたとき、中西さんに連絡をしたら、オヤジも喜んで見守っているよ』 と言われ、すごくうれしかったんですよね。やっぱり僕のなかで、中西さんを通して三原さんっていうのが日本最高の監督像にあって、大谷の使い方とかでも、これが三原さんだったら?いつも考えています。
 
 ・栗山さんは2人の思いを受け継いだだけではない。その夢をかなえ、さらにその先に進んでいる。「旅立った中西さんに、どんな言葉を送りたいですか」という質問には、「いえいえいえ」 と言って、大きく手を左右に振ってから答えた。「旅立ってほしくない。これからもずっと一緒です。いつも会話していきますよ。迷ったときには教えてくださいと話し掛けます。中西さんなら、どう答えてくれるかなと思いながら会話をしていきます亡くなった三原さんもそうですが、僕のなかには2人とも困っていたら降りてきてくれる感じがあるんですよ」
 
WBCを前に、かつて中西さんから託された「三原ノート」に加え、中西さんの家と長男の博さんの家で新たに見つけたノートが栗山監督に届けられた。三原、中西親子の世界一への援護射撃と言ったら大げさだろうか。高松でのお別れ会の話も聞いた。
 
あの日、式次第を見て、敏子夫人自らがあいさつをすると知り、少し驚いた。「人前で話をするのは得意ではありません」と聞いていたからだ。大勢の来場者がいて、緊張は大変なものだったと思う。
 
敏子夫人は則子さんに相談しながら文面を考え、それを懸命に暗記した。「人の名前だけは間違えたらいけませんので紙を見ましたが、ほかはなんとか覚えようと思いまして」照明が落ちた会場で、則子さんに支えられた敏子夫人がマイクの前に立った。言葉は震えながらもしっかりしていた。来場者に感謝の言葉を送り、最後、中西さんが書き残した日記に、こうあったと明かした。「出会った人たちに助けられ、本当に楽しい人生でした」
 
中西さん、いや、おやっさん私の高校時代、監督が毎日バッティング理論を語るのは、 中西太選手のインパクトの瞬間の写真を見ながらでした。いかに理論的か、いかに理想的か毎日おやっさんのフォームを見ていました。 私の野球のベースです。そして驚いたことに、そのおやっさんから、ヤクルト入団時、じかに指導をいただくことになります。 その感動は今でも忘れません。あこがれの人からティーを上げてもらって打ち方を教わる。感動のるつぼと思っていた矢先、「もっと強く」「もっと激しく」「振るんじゃ」ティーを上げながら大声でどんどんと迫ってくる。
 
もう目の前に来て「振れ、振るんじゃ!」おやっさんに「バットが当たる、危ないです」 と言葉にしようと思うんですが、それでも「いいから振れ。そんなこと関係ないんじゃ、 振るんじゃ!」。本当に手を打ってしまった選手もいました。そこまで選手をなんとかしようという愛情は誰にも伝わり、選手の心に大きな火をともしてくれました。その愛情こそ、私の指導者としてのすべての原点です。人を育てるためにこうあれと身をもって教えてもらいました。そんななかでもっともうれしかったことは、20歳で体を壊し引退した際、初めてグラウンドでお会いしたとき、遠くのベンチから「こらお前、誰が野球やめていいと言ったんじゃ。世の中なめているのか。うぬぼれるな。いい加減にせえ!」。多くの人の前で思い切り叱られて、ただ、こんなにうれしかったことはなかったです。大好きな野球、プロ選手として本当に中途半端な僕を、ある意味、選手として、あの中西太さんが認めてくれていた。涙があふれました
 
現在の野球の打つ技術のすべてのベースはおやっさんですそれをもう一度基本から教えてもらおうと、あるとき無謀にも自宅を訪ねさせてもらいました。なんと言われるかドキドキしていました。 本当に丁寧に何時間も指導してくださいました。その最後に、「これでてみい。オヤジのノートや」と何冊かのノートを机の上に置いてくださいました。これこそが私の宝物。私が監督としてずっと学び続けた三原ノート」 です。あの西鉄時代のミーティングをベースに野球の草創期、野球をつくり上げてきた三原野球の魂、発想、思いがすべて記されていました。私は本当に勝手ながら、「1日貸してください」と言ってコピーさせてもらい、それが僕の監督としての道しるべになりました。
 
 WBC直前、1月に電話で話をさせていただいたときも、体調は優れなかったと思いますが、本当に元気な声で、心配させまいと、おやっさんの優しさをひたすら感じていました。すべてはおやっさんの愛情から生まれたものです。ファイターズの監督となってから毎年、三原監督のお墓参りをさせていただき、恐れ多いことですが、三原監督と会話をさせてもらいました。 
 
このWBCでも、さらなる三原監督の手記や大切なことを、おやっさんをはじめ、親族の皆さんのおかげで私の手元に届けていただき、思考や決断など、勝ち切るためになくてはならないものになりました。本当に感謝しかありません。そんな明るい声に必ずいい報告をする。大きな力をいただきました。いつも私に言っていた「天につばしたらあかん! 天につばしたらあかんのじゃ!」。人は誰もがいいところ悪いところがありますが、人のいいところを本当に信じて大切にし、そして愛する。そうすれば必ず道は開ける。だから人をくさすような言葉はいっさい吐くな、ということだと思います。これこそ私のたった一つの自分との約束になっています。
 
最高の選手でありながら、これだけ多くの人をつくり、愛されたおやっさん同じときを生きることができたこと、これ以上幸せなことはありません。でも、ここでさよならは言いません。これからもずっと話をさせてください。一緒に一人でも育つように全力疾走していきます。おやっさん、ありがとうございました。これからもよろしくお願いします。
 
▼ ネットで見つけたけど、81歳のスイングがすごすぎるっ!!!

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まさに怪童、気は優しくてチカラ持ちだね。中西の人柄が伝わる。超オススメです。(=^・^=)