「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「524 人の命乞い 日航123便乗客乗員怪死の謎」(小田 周二)

この本は、胸が苦しくなる……酷くて切なくて怒りが込み上げてくる……。日航123便の本や動画はたくさんあるが被害者の遺族が書いた本となれば、深みが違う……。
 
「1985年8月12日。尊い520もの命は何故に奪われたのか。驚愕のストーリー。垂直尾翼を失い、操縦が困難になった123便自衛隊・総理は、524人の命乞いを無視して唯一助かる機会を奪った。それは横田基地への緊急着陸。さらに、自衛隊標的機の123便への衝突の不祥事を隠すために、123便を情け容赦なくミサイルでの撃墜を命じた。総理が自衛隊幹部とテロ虐殺を共謀し殺害実行した123便墜落の驚愕・慟哭の真実がここに」そのエッセンスを紹介しよう。
 
「旅客機が墜落したようだ」 まもなくして羽田から戻った妻は、墜落報道を知って激しく動揺した。日航123便、羽田発大阪行き。
妻の決壊したような形相を見て、私もすべてを悟った。この123便こそ、子どもたちを乗せて発った飛行機だった。頭の中が真っ白になり、しばらく立ち上がれなくなった。 不思議な符合と言うべきなのだろう。私の腹が前触れもなくさしこんだ、まさにあの時、子どもたちが乗った日航機は墜落していたのだ。あの痛みは、機上で救いを求める子どもたちの 言霊だったのかもしれない。後になってそう思った。 この時から、小田家は崩壊した。私と妻、長男それぞれの人生はここから狂いはじめ、もだえるような悲しみと沸騰する怒り、汲めども尽きない疑問に苛まれる日々が始まることになった。
 
* 子どもたちの遺体には会えた。だが、人生をこれから謳歌しようとする年頃、夢いっぱいの子どもらが、なぜこのような期を迎えねばならなかったのか。それを思うたびに、私は埋めようのない悲嘆と絶望の淵に沈んだ。
 
あの日あの時、機内の子どもたちがどのような状況にあったのか。始め私たち遺族には知るべくもなかったが、123便の墜落事件では奇跡的に4名の方が重傷を負いながらも生還した。 その方たちの証言が明らかになるにつれ、私たちも墜落までの機内の様子をいくらか推測できるようになった。もっともその内容とは、子どもたちが味わったに違いない驚きと恐怖を思い描いては泣き、その苦痛を追体験しては嘆き崩れることの繰り返し、また繰り返しに他ならなかった。
 
・轟音を聞いた子どもたちの驚愕。マスクを装着せよと言われた時の戦慄。 横内がその後しばらく安定していたという証言はわずかな救いだったが、その安定もやがて打ち切られる。墜落へと向かう時、乗客乗員524名の味わった断末魔の恐怖を思う私は、ただただ震えおののくばかりだった。 生存者の一人、落合由美さんは言う。
 
「落直前、前に突然にものすごい横揺れがあり、すぐに急降下が始まった。全くの急降下で、髪の毛が立つくらいの感じ、頭の両脇の髪が後ろに引っ張られるような恐怖の降下だった。乗客たちは、もう、声も出なかった」
 
愛する子どもたちが、そして524名の全員が等しく味わった凄まじい恐怖。この恐怖の急降下墜落は約20秒も続き、それから10秒後に機体は御巣鷹の尾根に墜落する乗客乗員の大半 が即死したほか、重傷を負った数十名もまた真っ暗な山中での救助不作為によって見殺しにされ、次々に命の灯を消していかねばならなかった。 一部始終を思って涙にくれた後、突き上げてくるのは、愛する肉親があまりにも長い恐怖の末、地面に叩きつけられて死なねばならなかったことへの心からの怒りだ。
 
 
この墜落事件はどのようにして起き、その責任はどこの誰にあるのか。そして、私たちの愛する家族は、もしかしたら助かる可能性があったのではないか。 検察が「信憑性が乏しい」と判断した事故調の報告書すなわち「圧力隔壁破壊説」。それに対する数多くの疑問を再検証し、誰もが納得できる形で事件を解明してほしい。その遺族の願い、要請にもかかわらず、政府、事故調は真相解明を拒んできた。 相模湾海底に沈んだ垂直尾翼やAPU(補助動力装置)の残骸は圧力隔壁破壊説」が正しいかどうかを検証するのに不可欠なものだが、政府はその捜索・回収作業をいち早くとりやめ てしまった。事故調の報告書は、最も重要な調査が打ち切られ、単に推論だけで作成されたものに過ぎなかったのである。さらに時が流れて99年11月になると、運輸省(現国交省)は総重量1160点の墜落事件関連の資料や証拠類を廃棄した。世界航空史上最悪の大惨事の資料を廃棄。それは、制定されたばかりの「情報公開法」が施行される直前の愚行だった。
 
・愛する者が失われた悲劇をできれば忘れたいとさえ思っている遺族が、3年も過ぎてなお、さまざまな資料を集め、航空力学や法律についても学んだ。その私なりの調査研究と検証の到達点として、私は事件についての一つの仮説にたどり着いたその仮説に基づく日航ジャンボ機墜落事件の全容を論文化したのが『日航機墜落事故真実と真相」(小田周二著,文芸社,201 5年)であり、そこで明らかにした事件の概要を一般の方にわかりやすくまとめたものが本書である。
 
・私の考える事件の全容は、事故調の言う圧力紙壁破壊説とは大きく違う。ところが、ここから大きな矛盾が始まる。
 
・新聞を広げた私の目は、紙面の奇妙な 「遭難者」という文字。慰霊式次第は墜落で犠牲になった520名を、こう呼んでいるのだ。 123便墜落事件では、何の落ち度もない乗客が機体もろとも墜落死させられた。万歩譲って事故調の言う圧力隔壁破壊説に立つとしても、亡くなった乗客たちは隔壁修理ミスが引き起こした事故の「被害者」であり「犠牲者」だろう。ところが式次第はその建て前さえかなぐり 捨てて死者たちを「遭難者」と呼び、津波火山噴火のような天災による死者と同様に扱おうとしている。
 
「被害者」や「犠牲者」ではなく「遭難者」「被災者」これは123便墜落事件を単なる天災、偶然の不幸として記憶させようという意図的な言葉の操作だ。「被害者」がいれば必然的にど こかに「加害者」がいる。だが、「遭難者」や「被災者」と言い換えてしまえば、「加害者」や 「責任者」はどこにもいないことになってしまう123便墜落事件は時間によって風化して いるだけでなく、意図的に事件性を脱色させられ、加害者のいない自然災害のようなものへと 置き換えられようとしているのだ。
 
「もしかしたら助かったのではないか。」これ は全ての遺族が今も抱き続けている思いだ。 垂直尾翼や油圧装置を失ってもなお、123便は手動で操縦可能だったのであり、機長は横田基地に着陸しようとしていた。その着陸が実現していれば、多くの乗客乗員は助かっていた。 生還できたのではないかという推測を科学的に否定できる論証を、私はいまだに読んだことも 聞いたこともない。本書で述べてきたように、この1年間、嫌と言うほど見聞きさせられてきたのは証言の数々から目をそむけ、検証に必要な材料をひたすら隠し、説明責任を果たさず、あまつさえ年には事故資料を廃棄するという暴挙に出る政府の姿勢ばかりだ。
 
私は夢を見る。無事生還した子ども、次男と長女を抱擁する夢を。日が覚めると同時にその夢は消える。 けれども。また次の日、次の朝、私はまた同じ夢を見る。その次の日も、そのまた翌朝も。 これからも遺族らは、全員無事生還の夢を花日のように見続けることだろう。事実が解き明かされ、 心から家族の死を悲しむことができるようになるその日まで。
 
自衛隊無人的機を旅客機に衝突させ、その不祥事を隠蔽するために乗客乗員を抹殺した。」――この仮説には、読者の少なくたい方が動揺し、心理的に激しく反発されるのではない だろうか。災害のたびに出動し、多くの被災者の救援にあたってくれる自衛隊。その自衛隊が自国の民間機を撃墜?まさか!しかし、自衛隊123便墜落事件の1年前の1971年、民間機に戦闘機を衝突させて162名全員を殺害するという前歴がある。それにもかかわらず多くの方が反射的に「まさか」 と思うのは、悪夢のような戦争を戦後70年にわたって忌避し、ある意味で日本が長いこと平和だったからなのかもしれない。先進国であれ発展途上国であれ、戦争が身近な国や地域では、軍隊がそのようなことをしかねない組織であることは当たり前だからだ。 先の戦争で苦い経験をくぐった日本人は、戦争や軍隊を忌避するようになった。そのために 、国家というものの実像を直視できなくなってしまった。
 
事故を風化させないために多くの人に知ってほしい。超オススメです。