小田原の実家に帰ってきています。本棚が崩れてしまったと母から連絡が。そのハナシを聞いて、ワタシは崩れ落ちました。(笑)片付けていたら出てきたのが、この本。はっきり覚えている桜井小学校5年か6年のときに、二宮尊徳先生の没後120周年祭のために全小中学校に配布されたものだ。
著者の高田稔さんは元白山中学校の校長なんだって。ちょっと読んだらこのページが目に入った。その一部を紹介しよう。
【天道と人道】
徳川時代は、いろいろな道徳や、君と臣の上下関係、 親と子の上下関係というものは、日月の運行と同じように、天が与えた権威ある道(天道)であるから、動かすことのできない絶対のものとされていた。だから、 天道に従うことが、人とし て守るべき道(人道)であるといわれた。だから、天道と人道は一緒なのだという考え方であった。
ところが尊徳は、それは別であるといっている。彼によれば、寒さがすぎれば 暑さがくる。夜があければ昼になる。万物が生ずれば、 また滅びる。それは天道である。
また、 天はすべての生物に恵みを与えるが善悪の心はもっていないから、 稲と雑草の区別はしない。種のあるものはみな育てる。 それを放っておけば、田は荒地にもどってしまう。 これが天道なのだ。人は天道にしたがって生れてきたけれども、 米を作ることを善とし雑草をはこびこらせることを悪として、 田から雑草をとりのぞくことに努力しなければならない。それが人道であるというのである。 尊徳のいう天道は自然の法則だから、放っておいても行われるが、 人道は人間が意識して、目的をもって行なうことだから、 努力しなければできない。
だから、こうもいっている。「天道に任せれば、堤はくずれ、川は埋まり、橋は朽ち、 家はくさる。人道は、これに反し、堤を築き、川をさらえ、橋を修理し、 屋根を葺きかえて雨のもらぬようにすることだ」
また、人間の心のうちにも天道の部分がある。 利己心などがそれだ。そういう利己心に従って奪い合うことは鳥獣と同じ天道で、 譲り合うことが人間にしかできない人道であるともいっている。このように、 尊徳は人間のなかにある天道の部分と人道の部分を区別した。
尊徳はこうして、一方で自然のめぐみを認めながらも、 自然に対する人間の力 をつよく主張した。これは、彼が貧困のなかから立ちあがって、 一家を再興し、多くの荒れた農村の立てなおしに成功した、 その自信からきたものであろう。
やっぱり「尊徳」勘定は大事だよね。(笑)やっぱり尊徳先生は偉大だ。非売品だけど、機会があれば手に入れて読んでください。オススメです。(^^)