ワタシは子どものころから自分のことを天才だと思っていた。今でもそう思っているのだが。(笑)しかしこの男、テリー伊藤には負ける!(・∀・)
「今の時代では書いてはいけないことかもしれない。それでも私は今だから書き記しておかねばと思った。コンプライアンスがそれほど問題とされなかった時代でも、何度も何度も出入り禁止ばかりを食らっていた男がいた。しかし、男はそれを乗り越え、天才と称されて、多くのフォロワーを生み出し、TVの世界を劇的に変えていった。その男のことを語ろうと思う」そのエッセンスを紹介しよう。
・あの男のことを話すとき、まるで未知の生物か未確認飛行物体を目撃したかのように、みんな熱く語り続ける。あの男の天才ぶりと狂気に満ちた日々を。天才ディレクターと呼ばれた彼を目標として、あるいは仮想的として、後にテレビ業界のカリスマとなるスタッフたちは番組をつくってきた。
・あの男ーテリー伊藤は出だしから栄光の椅子を約束されたわけではなく、成功者とはほど遠い落ちこぼれであり、負け犬だった。テリー伊藤は視聴者を面白がらせるには手段を選ばない。あの人ほど視聴者を楽しませることに全力を傾ける人はいない、と人々は証言する。その代償として現場は過酷だった。コンプライアンス最優先のいまとなっては、伊藤班は存在そのものが成立しないだろう。
大学、政党、テレビ局、編集スタジオ、寺院。
撮影後、出入り禁止になったロケ現場がいくつもあった。
天才ディレクターは出入り禁止、出禁ディレクターでもあった。
・テレビ業界で一度出禁を食らうと再度浮上するのは極めて難しいのだが、この男は例外だった。テリー伊藤と呼ばれた男がなし得た革命的な番組「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」「ねるとん紅鯨団」「浅草橋ヤング洋品店」をはじめとした、いくつもの番組で生み出された数々の手法がある。
・タレントに負荷を掛けさせず、のびのびと面白い自由なセリフを言わせるために、簡略化した横書きの台本を初めて考案した。
・“お約束”という演出を発案した。
・お笑いドキュメントとも言える演出を考案した。
・芸人の究極のリアクションを撮るため、ワニやヘビといった猛獣を登場させた。
・初めてタレントにバンジージャンプをやらせた。
・テレビ慣れした素人よりも、テレビに出したい素人を起用した。
・相手を褒めるときは本人に向けて、けなすときはカメラに向かって話す演出法を生み出した。
・素人を使ったロケスタイルのバラエティをつくった。
・スタッフの採用面接のとき、履歴書は一切見ず、いいところが一点だけでもあると採用し、個性的な演出家を多く輩出させた。
いまでは演出の要諦となっているこれらの手法は、テリー伊藤が生み出したほんの一部である。
・笑いをとるためなら手段を選ばない。テリー伊藤の番組は常に出禁のリスクを背負っていた。この男ほど天才の名をほしいままにし、時には狂気をはらむ凄みでテレビ番組をつくってきた人物はいなかった。コンプライアンスのゆるい当時でも、企画自体が許されないことばかりで、撮影も不可能なことだらけであった。テリー伊藤本人は、いままでに何度も半生を綴った本を出すことを拒んできた。この機会を逃せば天才ディレクターの半生はもう活字に残せないだろう。45年前の1976年秋、大学二年生だった私はこの男ー無名時代のテリー伊藤と出会い、交流をつづけさせてもらった。
・テレビの歴史を変え、笑いの世界を変え、多くの人々の価値観すら変えてきた男、伊藤輝夫は、いかに生まれ、テリー伊藤に至ったのか。出禁を恐れず、突破した一ディレクターの半生をこれから綴ろう。
・「昔の百倍、いまのお笑い芸人のほうが面白い。しゃべりが全然違うよね。昔のお笑い芸人は主に舞台だったけど、いまのお笑い芸人はテレビでトークを面白くしていくじゃない。だから演出家はお笑い芸人に助けられている面がある。おれが行ってきたことは、あの時代だからよかった。今の時代はまたいまのやり方があるから」
懐かしいなあ!80年代〜90年代の熱狂が蘇るなあ。なんどもアリだったから面白かったよね〜!超オススメです。(・∀・)