ワタシが小学生の頃のジャニーズのアイドルといえば、フォーリーブスだった。同級生に「アオキタカシ」という名前の子がおり、メンバーの青山孝と一文字違いじゃん!というところからだった。その後、あおい輝彦の名曲『あなただけを』が大ヒット。ロイ・ジェームスの『不二家歌謡ベストテン』でずっと一位だったことを今も、覚えている。そのあおい輝彦が『あしたのジョー』の声優だったことと、初代ジャニーズのメンバーだったことにビックリしたわー!♪ (・∀・)
さてこの本。今話題のスキャンダルな話しは書いてません。
「ジャニーズ事務所が創始されたのは一九六二年。すでに五〇年以上の年月が経っている。ジャニーズは、その長い歴史のなかで、多くの魅力的な男性アイドルを輩出してきた。戦後日本の芸能史を通じて、つねにアイドル事務所のトップとして君臨しているのがジャニーズに他ならない。なぜこれほどまでに、ジャニーズに日本人は心をつかまれてしまっているのだろうか。新たな切り口で読み解く戦後アイドル論」そのエッセンスを紹介しよう。
・ジャニーズの歴史は、古い。創立1962年。 これまで初代ジャニーズから始まり、フォーリーブス、 たのきんトリオ、シブがき隊、少年隊、光GENJI、SNAP、 嵐……と数々の人気タレントを生み出して来た。 私たちがいま見ているジャニーズは、 半世紀にわたるジャニーズ事務所の大いなる芸能史の一部なのだ。 本書は、 ジャニー喜多川のルーツを踏まえてその発想の源を見据えながら、 ジャニーズの個々の表現やショービジネスについて時系列に論じて いく。
・ジャニー喜多川の父・喜多川諦道は、真言密教高野山の導師で、 戦前、アメリカで布教活動をしていた。 そんな諦道の次男としてアメリカで生まれたのが、 ジャニー喜多川だ。1931年のことだ。 すでに亡くなってしまった兄と、姉のメリー喜多川がいる。 つまりジャニーやメリーは日系二世のアメリカ人として人生を歩み 始めた。ジャニーが10歳を過ぎたころ、日本に帰国、 親元を離れ和歌山に疎開したのだ。
・メリーは疎開中、大阪松竹歌劇団に所属し、 芸能の世界に触れていた。 戦後には大映の看板女優となる京マチ子などの世話役をして、 多くの演者から可愛がられていたという。 日本で終戦を迎えると大阪松竹歌劇団は占領軍のキャンプまわりを していたのだが、 英語を話すことのできるメリーはそこで司会をしていた。 晩年まで親交の深かった森光子と知り合ったのもこの頃だ。
・終戦後、姉弟はアメリカに渡る。ジャニーは、 ロサンゼルスの高校に通いながら、近所の劇場でアルバイトをし、 その後、ロサンゼルス市立大学に進学する。 ジャニーにおけるエンタテイメント産業や芸能界への憧れは、 こうした終戦後のアメリカで過ごした学生時代に徐々に募っていく 。
・遠き憧れの地として、日本人がアメリカに、 強く幻想を抱いていた時代。そんな時代にあって、 10代のジャニーはロサンゼルスで、 これらそうそうたる芸能人の手伝いをしていた。美空ひばり、 笠置シヅ子、古賀政男、ディック・ミネという顔ぶれは、 ジャニーがまさに当時の芸能界の最先端のエンタテイメントをこの 寺院で目の当たりにしたことを物語っている。
・ある日、雨が降って野球ができないので、全員で『ウエスト・ サイド・ストーリー』を見に行ったのね。 みんなが感激しちゃったの、すごいって。じゃあ、 野球のトレーニングと同じだからというので、「ああいう踊り、 踊ろうよ」って、ダンスのレッスンというか、 それを始めたんです。それがジャニーズ。
・(音楽ライター野田努)「 そもそもディスコとは政治的な欲望よりも性的な欲望がまさる世界 なのだ。 ジャニーが実際にゲイかどうか真偽のほどはさだかではないが、 重要なことは、ディスコという場所が、 社会的にマイノリティが生きられる空間だということである。 ゲイピープルにとってディスコとは、 マイノリティとしての生きづらい日常から、ほんのつかのま、 開放される場所である。舞台やダンスフロアというのは、 非ー日常的な空間であるべきだ」
「ジャニー喜多川の歩み」「ジャニーズと野球」「 歌って踊れるアイドルは鮮烈だった」「初代ジャニーズ」「 フォーリーブスのデビュー」「中性的な魅力」「ディスコ全盛期」 「ジャニーズにおける黒人音楽」「 ジャニーズディスコの到達点ー少年隊」「ジャニーズ冬の時代」「 阿久悠のアイドル観」「素人の時代がきた?」「 飽きられたアイドルー1990年代前半」「嵐」「 アイドルにおける未成熟問題」「ジャニーズの民主主義精神」など。
ジャニー喜多川の半世紀といってもいい。これを一代で築いてきただなんて、アイドルを見抜いて、育てたチカラってスゴイよね。ある意味、日本人必読だね。超オススメです。(・∀・)