いや〜この本、いいわ、オモシロイわー!ムズカシイんだけどグイグイ、惹き込まれていく。えっ!?「言葉とは物や概念の呼び名」じゃないたの!?じゃあ、何なの、言葉って!⁉
・私たちが言葉に対してもっている常識のなかには、 実はとんでもな間違った考えも少なくありません。 その典型的なものは「言葉とは物や概念の呼び名である」 という考え方です。言葉とは名前のリストであり、 それぞれの国語の単語が、 既存の事物や概念と一対一の対応をしているように思い込んでいる 人が少なくありません。
・それぞれ「犬」と「狼」という語で支持される動物が、 はじめから二種類に概念別されねばならないという理由などどこに もないのと同様に、あらゆる知覚や経験、そして森羅万象は、 言葉の網を通して見る以前はどこにも境界線の引きようのない連続 体なのです。「いってまいります」にせよ「ただいま」にせよ、 日本語にしかない概念で、決して万国共通のものではありません。 厳密に言うと「馬」と「horse」 は同じ意味範囲を持っていません。 太陽光線スペクトルの七色への分割も、 英語では六色に区切りますし、ショナ語(ローデシアの一言語) では、三色、バッサ語(リベリアに一言語)では、 二色にしか区切らないといいう事実は何を意味しているのでしょう か。
・数年前、在日アジア人留学生と日本の学生が協力して、 それぞれの国で親しまれているポップスや民謡を翻訳しあいました 。この企画は大成功に終わりましたが、そもそものきっかけは「 歌にこそ民族の心が生きているのに、 歌詞がわからないとその内容が通じないのではないか」 という気持ちからでした。
・ところが翻訳作業はまことに困難を極めました。 ただ単語を置き換えてくなどという仕事でなはないことは覚悟して いたそうですが、 文法上の問題以上に彼らを悩ましたのは文化そのものの違いだった のです。たとえばかぐや姫「神田川」 をマレー語に訳したマレーシアの留学生には、まず「風呂屋」 という語が翻訳不可能であったし、「同棲」 は母国では恥ずべき好意。まして「洗い髪が芯まで冷え、 小さな石鹸がカタカタ鳴る」まで待たされた女が「 あなたのやさしさが怖かった」などというその心情は、 マレーシア人には到底理解できなかったと言っていました。
・ソシュールはまず人間のもつ普遍的な言語能力、抽象化能力、 カテゴリー化能力およびその活動をランガージュlangageと 呼び、 個々の言語共同体で用いられている多種多様な国語体をラングlangueと呼んで、この二つをはっきりと分けました。
ソシュール、丸山圭三郎さんに興味を持ちました。他の本も読んでみよう!オススメです。(・∀・)