
ワタシの母校の小学校の真ん前にあった「アポロ模型店」通称「アポロ」。学校が終わるとみんなここに行くのだ!そしてプラモを眺める。当時は「サバンナ」「スカイライン」「セリカ」などのプラモが流行っていた。セリカ2000GT、好きだったなあ〜〜!そのときから心がワクワクするプラモが、泣く子も黙る「田宮模型」だ。タミヤ、って名前は男の子だったら知らない人はいないんじゃないかな!?なぜタミヤがプラモを作るようになったのか!?その歴史がこの本でわかります。そのエッセンスを紹介しよう。
・父の会社(田宮商事)に入社して2年後の1960年、 欧米からプラスチック製の模型が日本に輸入され始めた。 戦前からつづいていた木製模型は一気に過去のものになってしまっ た。多くの模型メーカーが脱落するなかで、 タミヤという会社と私自身が生き残れたのは、 幸運に恵まれたからにほかならない。幸運の第一は、 人に恵まれたことにつきる。
・子供の頃から模型が大好きだったが、 学校を卒業してから模型メーカーになるとは、 このころは夢にも考えていなかった。 模型に全く興味のなかった父にしても、同様であろう。
・昭和20年6月19日、静岡市の猛爆撃によって大半が炎上し、 2000人の死者がでた。 これによって経営していた軍需飛行機の座席工場、本社、 自宅が全焼し、父・田宮義雄はすべての財産を失った。 終戦の翌21年、何をすればいいのか迷ったすえに、父は、 友人の製材所の社長に勧められるまま、 軍需産業から製材業に転身する。22年別に木製模型部門を設立。 スケールモデルではなく、 模型教材の製造販売を業務とする部門のみだ。片手間とはいえ、 ともかっく現在の株式会社田宮模型の母体ができたことになる。
・静岡はもともと木工業の盛んな土地だから、 ライバルの木製模型メーカーは多い。他者と同じ発想では、 すぐに潰れてしまう。父がふと思いついたのは「動く楽しみ」 だった。昭和30年ごろの模型は、「作って、飾って、楽しむ」 だけだったのだ。昭和30年、試行錯誤した末、 モーターライズのパイオニアとなる木製の戦車が完成する。
・入社に際し、私は父にひとつの条件をだしている。「 この会社の借金返済が終わり、経営状態が良好になっても、兄弟・ 親戚・縁者はいっさい入社させないでくれ」と。 この理由を一言でいうのはむずかしい。機会があれば、 のちに語ることにする。
・入社二年目、昭和35年。アメリカ、イギリスから、 木製模型業界めがけて、とつぜん「ばくだん」が落ちて来た。 プラスチックという素材である。 いわゆるプラモデルがついに輸入され始めたのだ。 道はふたつに分かれていた。 木製模型にこだわりつづけ時代の流れのなかで消えるか、 こだわりを捨ててプラスチックという新素材に挑戦するか、 タミヤは時代に選択を迫られる。木製模型の「味」「愛着」 を取るか。安易にプラモデルに参入できない理由もふたつ、人、 そして金、である。
「第一号プラモデルをつくった人々」「小松崎茂先生の御恩」「 マブチモーターとの半世紀」「零戦をつくった男たち」「 セナ選手とゴーン氏に贈った模型」「天才!人形模型師たち」「 日本一のタミヤファン」「これから、何をつくろうか」など。
久しぶりにプラモを作りたくなりました。赤と青の星マーク、いいなあ。オススメです。(・∀・)

