ワタシが大学生の頃、勤労学生として3年間勤務した毎日新聞社。近くに神保町があり、我がセイシュン時代、働かせていただいて学費を払っておりました。(笑)その毎日新聞社が8年間だけプロ野球球団を持っていたなんて若い人は知らないよね〜!♪
しかも昭和25年、セ・パ分裂の最初の年に松竹ロビンスを破り、2リーグ制初の日本一に!戦後まもないプロ野球に流星のように消えた8年間の記憶とは?そのエッセンスを紹介しよう。
昭和25(1950)年、セ・ パ両リーグ分裂の大きなきっかけとなった毎日新聞社のプロ野球へ の参画。読売新聞社のジャイアンツに対抗するべく、 毎日オリオンズを中心にパ・リーグが結成された。この年は、 阪神(当時大阪)タイガースや国民リーグから有力選手が加わり、 松竹ロビンスを破り、2リーグ制初の日本一に。
昭和33(1958)年に大映ユニオンズを吸収合併、
戦後間もないプロ野球に流星のような軌跡を描いて消えた
毎日オリオンズの8年間にスポットを当てます。
・昭和25(1950)年の始め、発行部数は「読売」 が167万、「毎日」「朝日」がいずれも130万。 大衆路線を追求していた読売い抜かれ始めた時で、 危機感を覚えていたかもしれない。
・(池井優)別当薫のバッティングと走塁の綺麗さね。特に、 滑ったら膝で立つあのスライディングをする人、 最近いなくなっちゃったじゃないですか。見たことない。 別当はあれが得意あったですからねえ。ちょっと猫背で、 メガネをかけちて。 オリオンズの縦縞のユニフォームがあんなに似合う人はいなかった 。別当は戦争がなければもっと長く現役で活躍できたろうし、 ただ不運だったのが監督して1000勝以上したのに、 優勝を1回もしていないんですよね。 そらがちょっと七不思議みたいなものですね。
・オリオンズを変えたというのは、やっぱり榎本喜八でしょうね。 とにかく左ボックスからキーンって、 本当に綺麗なフォームで打ってましたよね。 榎本は相手投手のデータなんて一切研究していない。 ひたすら自分の打撃を追求することしか考えていない。