「名作再び。早世した作家による野球短編だけを集めた、新しい傑作選。日本のスポーツノンフィクションのシーンを塗り替えた表題作はじめ「スローカーブを、もう一球」「異邦人たちの天覧試合」など、山際淳司を代表する野球短編全12作品を収録」そのエッセンスを紹介しよう。
・石渡茂の話ー《江夏の投げたあのボール、 あれはホントに意識的にはずしたのか……。信じられんのですよ。 フォーク・ボールが偶然スッポ抜けたんじゃないか。 バットに当てられん球やなかった。スクイズってのは、 速い球に合わせる気持ちでやるもんです。ピッチャーも、 はずすときは速球ではずすんです。ところが変化球やった。 フォークです。それだけに信じられない。 ホントにはずしたんなら、そりゃもう、大変なことですよ……》 しかし間違いなく江夏の投げた球は石渡のバットの下をかいくぐっ たのである。偶然ではなく、である。
・試合が始まること、江夏はそっとベンチを出てロッカー・ ルームに向かった。それもまた、江夏のいつもの行動だった。 リリーフに徹するようになってからできあがった習慣である。 トレーナーがやってきて入念にマッサージを始める。 江夏の左腕は、 そういうことでかろうじて保たれいてるといってもよかった。 江夏はプロ入り以来、 公式戦だけでももう43311球もピッチングを繰り返してきてい るのだ。
・《どうやったってゼロでは切り抜けられない》。なら、 いっそきれいに散りたいと、そう思ったね。 押し出しや外野フライで点が入るのはものすごいいやだった。 むしろガツンと打たれたい。打てるなら打ってみろいう感じやね、 ホームラン打たれたってええじゃないか。 中途半端で決着つくのが一番いやだった。
・江夏が佐々木を2−1と追い込んだとき、 衣笠がマウンドに近寄った。そこで衣笠はこういったのだ。《 オレもお前と同じ気持ちだ。 ベンチやブルペンのことなんて気にするな》江夏がいう。《あのひとことで救われたという気持ちだったね。 オレと同じように考えてくれる奴がおる。オレが打たれて、 なんであいつが辞めなきゃいかんのか、 考えてみればバカバカしいことだけどね。でも、 オレにはうれしかったし、 胸のなかでもやもやっておしとったのが、スーッとなくなった。 そのひとことが心強かった。 集中力がよみがえったという感じだった》
・ オレは投球モーションに入って腕を振りあげるときに一塁側に首を 振り、 それから腕を降りおろす直前にバッターを見るクセがついている。 これは阪神に入団して3年目ぐらいのときに金田(正一) さんから教わったものなんだ。投げる前にバッターを見ろ、 相手の呼吸をそこで読めば、 その瞬間にボールを外すこともできる。 石渡に対する2球目がそれだった。石渡を見たとき、 バットがスッと動いた。来た!そういう感じ。 時間にすれば100分の1秒のことかもしれん。 いつかバントが来る、 スクイズをしてくるって思い込んでいたからわかったのかもしれな いね。オレの手をボールが離れる前にバントの構えが見えた。 真っ直ぐ投げ下ろすカーブの握りをしていたから、 握り変えられないカーブの握りのまま外した。 キャッチャーの水沼が、多分、 三塁ランナーの動きを見たんやろね。立つのが見えた……。 それがバッター・ボックスにいた石渡には信じられない。 あそこからスクイズを外してくるなんて、 しかも変化球で外してくるなんて……ありえない。 瞬時の出来事である。
その他、「落球伝説(池田純一)」「バッティング投手(有沢賢持)」「 テスト生(森田実)」「ノーヒット・ノーラン(仁科時成)」「 負け犬(ケン・モッカ)」「スローカーブをもう一球」「〈 ゲンさん〉の甲子園」「幻の甲子園と冨樫淳」「〈 ミスター社会人〉 のこと」「野球の「故郷」を旅する」「異邦人たちの天覧試合」など。