「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

BOOK〜ことばの文化、再考!…『悪口という文化』(山本幸司)

〈悪口〉という文化

〈悪口〉という文化

私は、大学は農学部なんだけど、もともと文学部に行きたかったこともあって、日本語とか言葉に関しての本が大好き!(^v^)またまた面白い本を発見しました。専門書っぽくて、読みにくいかもしれないけれど一週間かけて読みました。(^u^)

人類文化の中で悪口が担った役割とは?日本の悪態祭や各地の歌合戦など実例を紹介。近代にてやせ細った「ことばの文化」を再考。そのエッセンスを紹介しよう。


鎌倉幕府御成敗式目「闘殺の基は悪口より起こる」とあるように、悪口が原因で刀傷沙汰になったり、揚げ句には命まで失う羽目になるのは別に珍しい話でもない。しかし、悪口が社会の中で、いつでも否定的な存在だったかというと、そうとは限らない。人類社会の歴史をひもといてみるとみると、多くの社会では悪口というものに、一定の社会的な役割が与えられていた。それは特定の時間的枠内であったり、あるいは空間的限定がつけられていたりという留保を伴った場合が多いが、一概に悪口を排除する文化は案外少ないのである。では、悪口は社会にとってどのような意味を持っていたのか。それを問うことが本書の狙いである。


・江戸っ子の喧嘩は、現代の都会の巷に見られる血なまぐさい決闘とは大分ちがって、決闘ではなしに口喧嘩だった。いわゆるタンカを切ることが江戸っ子の喧嘩の時に出る言葉だったのだ。また喧嘩に用いられる語彙の豊富さと即妙さがみごとである。まさに立板に水のごとく悪口が飛び交うのである。それに比べて現代人の悪口の語彙が恐ろしく貧困であることは紛れもない事実ではないだろうか。江戸時代の浮世風呂などの世界を見ると、むしろ悪口の言い合いはそれだけで終わってその後には残らない。さらに言えば、悪口をつき合ったら、それで溜飲が下がって、お互いに収まってしまい、殴り合いなどする必要はなくなっているようにも感じられる。そういう意味では悪口というのは多面的な存在なのだ。


日本の民族には、公然と悪口の交換が行われる慣行があった。悪口の歴史について考える上では、この慣行を見逃すことはできない。その典型が、日本の各地で行われていた「悪口祭」とか、「悪態祭」あるいは「悪たれ祭」などと呼ばれる祭りである。またそいうした祭り以外にも、ことさらにこうした名称で呼ばれないまでも、祭りの一環として悪口の言い合いが含まれていた祭りは、おそらく相当な数に上るだろう。最勝寺悪口祭は、今日では大晦日の晩から元旦の未明にかけて行われており、近年の資料によると、参道で行き交う人に「ばかやろー」と大声で悪口を掛け合う習わしだと報告されている。ただし、悪口の中でも「貧乏」「どろぼう」など。「―ぼう」のつく言葉は禁句になっているという。


悪口祭に言い勝つということは、その人間の願いが神に聞き届けられたということであり、したがって悪口祭は、その結果その人が一年中福運に恵まれるという一種の年占である。そして同時にそこには、日常生活で素行の悪い人間を戒める社会的制裁の要素も含まれているのだということになる。


その他、文化人類学社会学の見解」「悪口を歌詞にした歌の掛け合いによって紛争を解決するイヌイットエスキモー)の社会」


…分かるなあ!(^u^)口ではいやらしいことを話しても、実際は堅い人っているよね。逆にいつもはマジメなんだけど、実はムッツリすけべだったりして…。やっぱり酸いも甘いも知っている人が魅力的だよね。おススメ!(^<^)