「てるてるソング」 小野塚テルの一日一冊一感動『感動の仕入れ!』日記

毎日の読書、映画、グルメ、流し、人との出会いなど様々なものから感動を得ています。特に本は年間300~400冊読破します。人々を『感』させ『動』に導き、『感する人』になるようにそのエッセンスを紹介しています。

「オーナーたちのプロ野球史」(中川右介)

 

いや〜!こんな本が欲しかった!読みたかった!!!570ページの本を一気読みだわー!!!グイグイ惹き込まれてしまった!!!

以前読んだ、この本の増補版かな!?(=^・^=)

 

lp6ac4.hatenablog.com

 

「野球の歴史は明治の初め、アメリカへ留学した鉄道技師がボールとグローブを携えて帰国した話から始まる。その後、明治初期から昭和初期まで、野球と鉄道と新聞は並行して発展し、この三社が出会うことで、「プロ野球」は誕生した。その後、食品メーカー、映画会社から情報・ネット産業までどんな企業、どんな人物が、プロ野球に参画し、撤退していったのか。プロ野球球団を経営したオーナーと、その企業を主人公にした「親会社」視点からの野球史」そのエッセンスを紹介しよう。

 

 
・この本は、プロ野球史を「親会社」の視点から描くものだ。したがって、野球の本でありながら、名選手・名監督・名勝負・伝説の名試合も出てこない。プロ野球球団を経営したオーナーと、その企業を主人公にした野球史の本である。
 
・球団の親会社となった企業は、ネーミングライツも含めれば、58社になる。1936年に日本職業野球連盟が発足したときに加盟したのは7球団で、その親会社は鉄道会社が3、新聞社が4だった。この二業種しかなかった。現在は鉄道会社と新聞社が各2、食品メーカーが3、情報・ネット関係が3、金融、自動車メーカーが各1となる。12チームだが親会社の業種としては6しかない。偏りがあるのだ。
 
これまでにプロ野球に参画しながらも全て撤退したのが映画会社で、大映、東映、松竹の三社が球団を持っていたのに、いまは一社も残っていない。鉄道会社もかつては関西五大民鉄のうち、京阪を除く四社、阪神、阪急、南海、近鉄が球団を持っていたが、阪神以外は撤退した。国鉄や東急、西鉄、一年だけだが名鉄も球団を持っていた時期がある。新聞社も、毎日新聞、産経新聞がいったんは持ちながらも撤退した。
 
・1936年から現在まで親会社が一貫しているのは阪神タイガースだけだ(阪急と経営統合してはいるが)。最初の球団とされる巨人軍は実は経営母体は一貫していない。 三六年の東京巨人軍の経営母体は、株主のなかに正力松太郎の名はあるが読売新聞社はなく、筆頭株主は京成電鉄の社長だった。巨人軍が読売新聞社の子会社に経営が移管されるのは戦後なのだ。またプロ野球が始まるよりも前に建てられ、現在まで現役の球場として使用されているのは、阪神甲子園球場のみである。
 
・時間軸に沿って、どの企業・どの人物がプロ野球に参画し撤退していったかの歴史をたどる。そこから、この一世紀弱の日本社会の変遷も見ていこう。
 
 
・長い歴史物語は、明治の初め、アメリカへ留学した鉄道技師がボールとグローブを携えて帰国した話から始まる。そこから「初の職業野球のチーム」結成まで、日本社会は半世紀近くを必要とした。明治初期から昭和初期まで、野球と鉄道と新聞とは並行して発展し、この三者が出会うことで、「プロ野球」は誕生する。
 
・オーナーたちのなかには野球を愛した者もいれば、何の興味も持たない者もいた。華族もいれば戦後成金もいた。球団を持つ目的も、営利事業のひとつ、自社の宣伝、顧客サービス、社員が一体になるため、成り行き、などさまざまである。撤退した企業も多いが、そのなかで経営破綻したのは、偶然にも、大映とダイエーである。
 
・蒸気機関車の開発に携機関車の開発・設計だけでなく、運転にも従事し、有能な鉄道技師となった平岡凞は1876(明治9))6月に帰国した。彼がアメリカから日本に持ち帰ったのは、鉄道技術とベースボールとローラースケートだった。平岡は帰国時にボールとグローブを持ち帰り、最初は弟と遊んでいたが、訪ねて来る青年たちが興味を示すようになると、神田三崎町の練兵場でベースボールの真似事を始めた。

・大震災前の東京の新聞は発行部数のトップは「報知新聞」で36万部、続いて福沢諭吉が創刊した「時事新報」と徳富蘇峰の「國民新聞」が30万部前後で続き、それを東京朝日が23万部、東京日日新聞(後、毎日新聞)が20万部前後で追い、ここまでが 「五大新聞」だった。読売はその次のランクで13万部前後だった。
 
・これまでと同じことをしていたのでは部数は伸びない。正力は「グロテスク、エロティック、センセーション」が新聞の生命だと開き直り、大衆が喜ぶ紙面へと改革した。 ヒットしたのが「ラジオ欄」だった。番組表を新聞に掲載することを思いつき、正力に提案した。他紙はラジオを敵視していたので、番組表を載せるなど思いもつかない。一社独占が可能だ。「よみうりラヂオ版」を付けると便利だと評判になり、半年で一万部の増加となり、ラジオの広告も増えた。こうして囲碁欄、将棋欄、競馬の予想欄、ビリヤード欄、麻雀欄、釣り欄など、新しいコーナーを次々と採用していった。その結果、1933年(昭和8)には読売の部数は50万部を超えた。
 
・後発の読売が部数競争に勝つには戦略が必要だった。正力は大規模イベントを主催するのが手っ取り早いと考え、次々とイベントを企画させた。イベントの宣伝は自前の紙面なのでただでできる。そうやって集客できればイベントそのもので利益も出る。そのイベントの情報を新聞に独占して載せれば、知りたい者は読売を買うしかないので、新聞も売れる。興行そのもので利益を出し、新聞の読者も増やす、一石二鳥である。勝利気の興行師としてのカンは冴えていた。野球に何の関心もない男が、野球で最大のビジネスとしての成功を掴んだのである。
 
そうかあ!読売の歴史がオモシロイわー!正力松太郎ってスゴイわー!!
 
「幻のペプシコーラ球団」で、もしペプシコーラが球団を持っていたらどんな歴史になっていたんだろうね。野球ファン必読、超オススメです。(=^・^=)